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取材記事内を検索ワード「城西」で検索した結果,127件の記事が見つかりました。

2015年 宵のまち歩き「徳守神社の文化財だんじり見学」

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2015年10月24日(土)「宵のまち歩き」(宵祭りを楽しむ会)が行われ行ってきました。
 約30名が参加し、文化財のだんじりや神輿・田町子ども奴の練習風景を見学してきました。
まずは城西浪漫館長でもあり、だんじり研究家で知られる延原誠さんがガイドを努めてくださり、徳守神社の大神輿に続き、祭りの安全祈願に訪れただんじりについて説明してくださいました。その後、田町こども奴行列の練習に立ち寄りました。最後に、宮脇町の休憩所でお接待を受けながら、再度、各町内のだんじりの説明を受けました。参加者の皆さんはほろ酔い加減で説明を聞き大満足でした。

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小田中田中の荒神様

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小田中田中の荒神様 (2015年5月5日・9日、3月31日取材) 子どものお祭り
 小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』(わみょうしょう)には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋(す じかいばし)東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来して います。
 町内の中心には白加美守護神があり、東面には農耕の守護神として荒神社が祀られています。

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小田中奥田中の荒神様

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 小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』(わみょうしょう)には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋(すじかいばし)東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来しています。
 小田中・田中北部に荒神様があります。農耕の守護神として祀られています。今では地元の方7人程で年に2回ほど集まってお参りしておられるとか。(2015年5月9日取材)

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明石屋淵と水練場(安岡町)

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 安岡の裏には清らかな吉井川の流れ、大きな淵(現在のテトラポット付近)があり、鯉・鮒をはじめ数十種類の魚が生息している。
 文化・文政の頃からこの場所では夏になると水練場として多くの子どもから大人まで賑やかに泳いでいました。特に戦後は水泳が盛んになり、夏休みになると西小学区の子どもたち(男は赤フンドシ)が真っ黒く日焼けし、水しぶきをあげたものです。また、この地では神伝流の泳法が盛んで、昭和の三十年頃までは多くの子どもたちはその泳法を習い水泳のできない子どもは皆無の地域でした。

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聖徳寺 和霊まつり (小田中新屋敷)

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 毎年7月30日午後7時頃より堂内で大般若転読法要、境内にて紫灯大護摩の祈願法要が行われる和霊大明神は厄除けの神として、また願い事は必ずかなえてくれると言う津山地方で名高い神様で、祭神は伊予の宇和島藩の家老で仙台藩主伊達正宗の子秀宗に仕えた人で、山家清兵衛公頼公(やんべせいべいきみよりこう)である。

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津山市安岡町の石灯籠

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安岡町から吉井川の川原におりると、川の流れの中に昭和40年代中頃まで四角く切り出した石の台があった。我々が子どもの頃にはフナやコイ、ギギなどの魚種が豊富な良い釣り場であったが、ここはもともと江戸期から続く『トウフ』と呼ばれる船着き場であった。ここを見下ろす川土手には今でも金比羅大権現と書かれた石灯籠がたっている。これは江戸期に城下町の一部として安岡町が編入された事で、船頭町から移転した西端の船着き場として高瀬舟や木材の切り出しの筏の往来に使われてきた常夜灯で有るように思われる。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)

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西山宗因の句碑(小田中新屋敷)

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聖徳寺正門を入ってすぐ左側(新屋敷)
後年俳聖芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖宗因は承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で中秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている
 月見れば こよひなりけり 旅の空 西山宗因 書は彫無季氏(2015年5月9日)

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新高倉稲荷神社(西今町)

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この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日

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義信神社(安岡町)

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この近辺で義人を祀る神社というのは珍しいと思われる。安岡町の義信神社は渡辺藤左衛門義信という義人が祀られている。もと安岡町と茅町は津山の城下町になっていなくて城下町に比して重税に苦しんでいたと云う。元禄の頃安岡町に渡辺藤左衛門義信という浪人がいて町民の為に藩に直訴した処、願いが聞き届けられて城下編入が実現した。しかし、直訴は法度であり、義信は処刑されてしまう。町民は藤左衛門をあわれみ、その義挙を徳とし祠を建て神と崇めた。それが義信神社である。今も安岡町の人々はこの宮をあつく敬い、夏と秋にねんごろに祭祀を行っている。(文:つやま城西まるごとまち自慢より)

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神田 神田稲荷様(小田中)

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 神田稲荷様は通称中道と呼ばれる道路沿いに位置し、その昔はことあるごとに神田町内の人々が食事を持ち寄り懇談の場所としていました。近年は旧暦の10月の亥の日に亥の子祭りと称して、子どもたちが集まり丸い石に数本の綱をつけて提灯を灯して、各家庭を廻って亥の子歌を歌い、子どもたちが綱で縛った石で庭を打って穴を空けます。そのときに歌う歌詞は「亥の子 亥の子 亥のこの晩に祝わん者は 鬼生め蛇生め 角生えた子生め」で廻った各家庭からお布施を貰うと「この家 繁盛せえ 繁盛せえ」と歌って亥の子石を均し廻しをして次の家に向かいます。

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