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取材記事内を検索ワード「霊場」で検索した結果,223件の記事が見つかりました。

梅本山 観音寺(鏡野町)

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 弘仁十三年(823年)、山岳権現信仰の発達していた時代、藤原雄友の創建で、この地の泉山山中に井水権現を本尊として神仏混合の社殿を建立し、当観音寺はその宿坊の役目をしていました。
 後に勢力分離の国策のため、泉山に泉嵓神社として残し、観音寺は今この地に移転されました。その後は西屋城の戦でこの地に没した多くの兵士の菩堤を弔うために、慶長五年(1600)に頼照上人が中興となって再建されました。
 山号に梅本山とあるのは、菅原一族の一部がこの地に土着して、道真公を奉祠したのを契機に、梅本山と号したのだと思われます。
 持佛堂に阿弥陀如来と秘佛の訶利帝母尊(鬼子母神)をお奉りしていますので、子育てのお寺として信仰されています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年10月日)

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逧田の合祀されているお大師堂(福井)

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 福井の片山・桑田集落の南には、広戸川が流れ、木造手すりの草町橋がかかっている。この草町橋を渡って、小峪に抜ける山道にさしかかった丘の上に、お大師堂が祀られている。
 ここら辺りは、逧田と言う地名であり、このお大師堂には、「勝南霊場第拾九番御本尊 薬師如来」の表札がある。一般に、お大師堂と言って、本尊に薬師様を祀っている事例が多い。正しく言うと、これは薬師堂である。お薬師様、すなわち薬師如来は、東方浄瑠璃世界に住んでいて、現世利益をはかる医薬に権威を持った仏様である。昔はとくに医療治療がままならなかった農民にとって、病気平癒・無病息災を願う気持ちは切実なものがあり、薬師如来にすがる信仰は、強いものがあった。
 この逧田のお大師堂の創建は不明だが、お大師信仰・八十八か寺巡りが盛んであった戦前の、昭和12年(1937年)に改築されている。だれがどのような協力のもとに建てたか、後年よくわかるように、金銭や人歩・資材の寄付録が、内部の壁に掲げてある。「薬師堂改築寄付録」(金銭寄付)では56名、「薬師堂改築寄付録 人歩及び材料」では、54名の住民の名前が記されており、小字部落の片山・桑田・小峪(以上、有為組)と岡・東岡・横尾(以上 三結団)が共同しての出資や奉仕により、再建したものである。また、昭和30年に屋根の葺き替えをしているが、この時も63名の住民の名が記されて、住民みんなこぞっての協力によるものであることがわかる。

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八木山 知足院 福泉寺(鏡野町)

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  当山は寺伝によれば、行基菩薩が諸国巡礼の折、当地に立ち寄られ自ら観音像を刻まれ安置、寺号を福岡山福泉寺とし、開創されたお寺です。
 その後、弘仁年間には弘法大師も密教を広めるため、当寺に立ち寄られました。その折、寺号を知足院と改められました。そのため、当山は知足院ともいいます。
 宝暦年間に落雷により火災となり、伽藍が悉く焼失してしまいました。
 境内を現在地、米山に移して寺号を八木山福泉寺と称しました。本堂は文政二年(1819)、庫裏は明治元年の建立です。 

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村境の道標と灯籠型の六体地蔵(福井)

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田熊の大町・下木集落を真っすぐ南下すると、勝央町福吉に抜ける細い山道に入る。また、福井の片山集落から草町橋を渡って東に進むと、さらに細い山道があり、やがて田熊からの南下した道と出合う。福井からこの道は、さらに東進すれば、同じ福井分の離れ集落小峪と言われる戸数数軒の集落に行き着く。
 この2つの山道が出合った場所は、六道と言い、人里離れた山中であって、道の分岐点といえども道を尋ねる民家とてない。この位置に、津山では珍しい高さ1m余の六角灯籠型の六体地蔵があり、少し離れた東側の草むらに道標が残存している。長谷稲荷へ通じる道中でもあり、ここは福井分として、いまでも片山・桑田の住人により六体地蔵が祀られ、道路を含む周辺が整備されたりしている。
 道標は、文字が消えかかっているが、山石に次のように刻まれている。

(梵字) 右 たぐま 中 なら かうも ふくい 左 津山 道
    弘化 三年 丙午年 十月吉日 (弘化3年=1847年)
 道標は、昔は数多くあったが、今に現場に残る数少ない文化財と言えよう。

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合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

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 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

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男女山 金光院 吉祥寺(鏡野町)

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 当山はかつて七百有余年の昔、男山(おんやま)の東麓に山を負い、香々美川を眼下に堂・伽藍の荘厳さは、想像に絶するものであったといいます。
 しかしながら、慶長年間に暴風雨のため、男女山の半腹より崩壊し、境内・外の土地、建物及び什器を流失するところとなりました。そのために字旧寺に移しましたが、その後再び洪水のために流失し、今の地に移しました。
 明和三年(1766)、観深上人が堂宇を建立し、大変壮観であったといいます。残念なことに明治十三年火災により焼失し、堂宇を再建しました。
 平成十六年より堂宇・境内の整備事業を行い、伽藍の荘厳大いに整い、現在に及んでおります。
(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日)

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蕎麦尾山 光明院 金剛頂寺(鏡野町)

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 当山は、大宝三年(703)の開山と伝えられています。開基は不詳ですが、一説に鑑真和尚の説があります。
 弘法大師が美作路を巡錫の道すがら、蕎麦尾山に立ち寄られ、しばらく足を留め修業をされましたが、その折、近くの岩の塊を祈念し、手に持てる五鈷で岩角を打つと、忽ち澄み切った水がほとばしり出ました。大師は傍らに八大龍王及び弥勒菩薩を祀り、この霊水を本尊に供えられました。以来この霊水は、弘法大師の閼伽池として後世に伝えられ、今も霊水の枯れることなく現存しています。
 平安、鎌倉時代には特に栄え山上には伽藍がそびえ、参道の途中には小堂が建立され、高野山になぞられてこの堂を女人堂といい、当時女性はこの堂までしかお参りできませんでした。
 慶長十一年(1606)、当時の住職快秀が、ある夜の夢に、「この寺には以前銘鐘があったが、地中に埋められている。早く掘出しなさい。鐘のある場所は浴室の側の芭蕉の根元だ。」と告げて消え去りました。夢から覚めた住職は早速芭蕉の根元を掘ると、五尺余りの見事な梵鐘が出てきました。その銘には「美作国蕎麦尾山光明院 法界衆生平等利益之為也 嘉元四年(1306)丙午年正月二十八日」と刻まれていました。嘉元四年は鎌倉末期であります。
 戦前地元に良い音色を響かせ親しまれていた銘鐘も、戦時中に供出させられ、今はありません。

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法崋山 大円院 弘秀寺(鏡野町)

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 当山は神亀元年(724)行基菩薩の開基と伝えられ、正平七年(1352)近衛関白経忠公を葬り、菩提寺となりました。今でも子孫のお参りがあります。
 昭和16年までは法華山大円寺であり、現在の奥の院は天楽山弘秀寺といいました。昭和17年に、二ヵ寺を一ヵ寺にして、法崋山弘秀寺と改めました。
 その昔は、大円寺と弘秀寺の間に十二坊のお寺がありましたが、消失してしまいました。寺名は残っております。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月29日)

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明徳山 上野寺(鏡野町)

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 当山は、天平年中に行基菩薩が一刀三礼により、本尊を勧請し、一宇を創建したと伝わります。
平安朝の一條天皇の時代に、陰陽博士清明・道満の二人が日本興地図を納めるために、数日当山にとどまり、石函を作り地図を納めたといわれ、石を切り出した場所にお寺が建立され、上野山明徳寺と号しました。
 戦国乱世の天正九年(1581)、毛利軍の西屋城攻略の戦火に巻き込まれ、堂宇全て灰燼と化しますが、慶長年間、釈龍圓上人により中興再建され、この時に寺号と山号を入れ替え、明徳山上野寺と改称されました。
 寛政年中の『寺院本末帳』には「西々條郡函村妙徳山世尊院上野寺」との記述も見え、時代の変遷を経て、現在の地に法灯を伝えております。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月15日)

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別所山 無量壽院 安養寺(鏡野町)

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 当山の開祖は、嵯峨天皇の時代嵯峨山と伝えられていますが不詳です。播磨の三木城主別所家の菩提所として再建され、別所寺と呼ばれていました。
 天正八年(1580)正月に三木城が落城し、別所長治自刄の翌年、宇喜多和泉守直家により別所山安養寺と命名されました。慶長の初め、快鏡上人により再興され、度々の災禍の後、弘化三年(1846)に日笠快道上人が新住され、私財をもって本堂、庫裡を再建され、宝筺印塔を建立、西国三十三観音を勧請、野津羅井堰築堤して水路を開くなど、中興の祖となられました。久田村安養寺の略歴です。
 平成五年、もとは旧奥津町土生にあり、奥津ダム建設のため当地を得て再建、平成十年四月に落慶しました。
 本尊は、阿弥陀三尊です。他に鎌倉後期の等身大十一面観音、室町期の不動明王ほか、聖観音、弁財天、毘沙門天などを祭祀してあります。西国三十三観音は南の山、岡山から北の山、天王ノ木にかけて勧請し、遊歩道も整備してあります。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日・20日)

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