取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「門」で検索した結果,752件の記事が見つかりました。

碗の中の小宇宙 秘めたる器『曜変天目』

suzuki1-3.jpg

  2020年01月11日(土)~ 2020年01月26日(日)、 ポートアート&デザイン津山にて「碗の中の小宇宙 秘めたる器『曜変天目』」が開催され大勢の方が訪れていました。
 この作品展は、日本に3点しか存在しない国宝「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」をひたすら追及する陶芸家の鈴木禎三さん(津山市在住)の作品展です。
「器として何か超越している〈もの〉を内包している国宝『曜変天目』におもいをいたすと、人が生み出す〈もの〉には〈いにしえ〉の人なら感じることができるであろう〈心〉〈自然〉がただただそこにはあると思う。まだまだ力不足な自身の『曜変』の天目ではあるが国宝『曜変天目』と少しでもなにか通ずる所を感じてもらえたらと切に思う。鈴木禎三」


鈴木禎三さんのプロフィール
 1974年大阪府堺市生まれ、1994年岡山県備前陶芸センター卒業、1997年青年海外協力隊としてフィリピンに派遣(~2000年)、2002年岡山県津山市に作陶の拠点を築き天目の研究を始める、2014年初個展、2015年JICAシニアボランティアとしてベトナムで陶芸指導。

碗の中の小宇宙 秘めたる器『曜変天目』の続きを読む

童子切安綱写し刀お披露目セレモニー

katana-douji3.jpg

童子切安綱(国宝 太刀 伯耆安綱「名物 童子切安綱」東京国立博物館所蔵)
 平安時代に活躍した武将・源頼光が大江山の怪物・酒呑童子の首を切り落としたという伝承を持つ太刀です。作者の安綱は、平安時代に伯耆(現在の鳥取県西部)で活躍した刀工。伯耆は、備前(岡山県)や山城(京都府)のようなメジャーな刀剣産地ではありませんが、良質な鉄の産地であるため、名工・名刀が出ています。その安綱が手掛けた刀剣の最高傑作がこの太刀で、その造形の素晴らしさが、酒呑童子伝説と結び付いたものと考えられます。
 「天下五剣」の一つとして古くから名高く、足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、そして秀忠へと天下人の手を経て、秀忠の娘・勝姫が松平忠直に輿入れする際に持参し、忠直から光長、宣富へと受け継がれ、津山藩主松平家で長く家宝として伝えられました。戦後、松平家の手を離れ、個人所有を経て、現在は東京国立博物館が所蔵しています。
(ただし、この伝来には異説もあり、小牧・長久手の戦いの後、結城秀康が秀吉の養子となる際に、父家康が餞別として贈ったものとも言われます。)
 この太刀は保存状態が非常に良く、茎の目針穴が一つしかありません。これは、作成当初の姿をほぼ留めているということであり、長く大切にされてきた証しでもあります。
 このように、安綱の最高傑作という美術工芸品としての優れた価値だけでなく、天下人の手を経て津山藩主松平家に伝わったという華麗な由緒来歴を持ち合わせていることから、国宝に指定されています。

童子切安綱写し刀お披露目セレモニーの続きを読む

美作の大庄屋巡り「中西家」

800nakanishike1.jpg

 中西家 中西孫右衛門 東北条郡小中原村 森藩~松平藩 関宿藩
大庄屋まで
 中西氏は、戦国末期、津山市勝北町西中にあった中西城の城主であった。中西玄蕃頭は尼子氏に従っていたが、のちに矢筈城の草刈氏に従った。草刈氏と姻戚関係を持ち、重臣として活躍し、草刈重継が毛利氏に従い安芸へ退去したとき、加茂郷に帰農したという。孫右衛門が森藩により大庄屋に任命された。

美作の大庄屋巡り「中西家」の続きを読む

美作の庄屋巡り「多胡源右衛門」

20188-13tagoke155.jpg

 天正7年(1579年)尼子氏が亡んで、尼子氏の旧臣であった東北條郡綾部村(津山市)多胡源三郎基辰(妻は田口氏)は、父四郎右衛門基信(いづれも多胡氏略系参照)と共に宇喜多直家に属した。
 多胡基辰は毛利氏の属城の東北條郡岩尾山城(津山市吉見、祝山、医王山ともいう、既述)を常にうかがっていた。
 毛利方の城將の塩屋佐助は父の豊後守、弟杢助と共に城を守っていたが、多胡基辰に不意を襲われ戦死、落城した。

美作の庄屋巡り「多胡源右衛門」の続きを読む

2020 徳守神社節分祭(特殊神事 追儺式)

2020-tokumori13.jpg

特殊神事 追儺式
 追儺式とは、赤鬼・青鬼・小鬼たちが、たいまつを手にドラの音を勇ましく鳴らしながら境内に参入し一斉に拝殿に押し寄せ、それを拝殿で待ち構えていたお福や年男・年女(要参加予約)達が豆を投げて追い返し、これを三度繰り返した後、最後に年男・年女の方々が破魔矢を放ち、参集された方々を始め氏子の皆さまの無病息災・福徳招来を祈念するという神事です。 当社で古くから行われている神事で、年男・年女が放った矢を受け取られた方は特別な福徳招来のご利益を頂き、一年間無病息災で暮らせると伝えられております。(文:徳守神社HPより転載)(2020年2月3日撮影)

2020 徳守神社節分祭(特殊神事 追儺式)の続きを読む

2020八出天満宮の「とんど祭」

tondo-yaide14.jpg

 2020年1月12日(日) 13:00 〜 14:00 八出天満宮の宮総代さんから案内を戴き、とんど焼きの行事を取材してきました。「とんど焼き」は、正月の松飾り・しめなわ・書き初めなどを各家から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、日本全国に伝わるお正月の火祭り行事です。(2016年八出天満宮のとんど焼きの様子です。
 八出天満宮は菅原道真公が御祭神。古来この地に残る言い伝えによると、「天安元年(857年)美作の国司として赴任しておられた父是善が、この地に流行っていた疫病に罹り、父の病を心配した若き日の道真公(吉祥丸)が、遠く京都から見舞いに来られた全国の天満宮の中でも稀な縁起と最古に位置する起源を持つ由緒あるお宮である。

2020八出天満宮の「とんど祭」の続きを読む

美作の大庄屋巡り「木村家」

kimura-h-4.jpg

木村家 木村治右衛門 勝南郡勝間田村 森藩~甲府領 完宿藩
大庄屋まで
 木村氏の出自は諸説ある。その一つは毛利氏の家臣龍門帯刀が帰農し、その子孫与左右衛門が木村を称したといわれるものである。
大庄屋として
 森藩の助成で、河原の多い勝間田の低地の大規模な開田工事が行われたとき、下山和十郎、木村治右衛門は、現在の新町、当時中河原と呼ばれた荒地を開発し、新田、井堰を造成した。その功績によって下山家は津山藩の本陣に、木村治右衛門は大庄屋に任命され、木村家は勝山藩、松江藩の本陣、脇本陣を勤めた。

美作の大庄屋巡り「木村家」の続きを読む

坪井本陣跡(今井醤油店)

t-fukumoto5.jpg

 作陽誌に「駅中(坪井宿)に太守茶屋あり」と記載されている。「太守」とは松江藩ではないかと思われる。
 新家家系図によると、新家源蔵のとき「雲州松江城主 松平出羽守より、坪井駅中(坪井宿)「脇本陣」を仰せ付けられ、兼ねて御用達御定宿を命じ、年給金百余両の金を給う。」とある。この時「菊屋」と称す。
 新家利右衛門の時「松平出羽守より改めて御本陣を仰せ付けられ苗字帯刀を給る。金子の外に千足を下し給う。」本陣を命じられたのは明和3年(1766)の頃と思われる。

坪井本陣跡(今井醤油店)の続きを読む

景清山 往生院 寶性寺(鏡野町)

housyoji-k17.jpg

景清山 往生院 寶性寺
 縁起によると、各地で戦功のあった藤原景清が将軍足利利義詮から恩賞として当山の地を賜り、館を構え母と暮らしていました。やがて、武勇にすぐれ衆望厚い景清は、出世を妬んだものに謀殺され、悲歎にくれた母も後を負うように亡くなってしまいました。
 これを哀れんだ叔父の景明は景清母子の亡がらをねんごろに山内に葬り、弔いのため仏門に入ることを決心し、剃髪しました。そして、館を精舎としてご本尊を求めていた景明は、二宮村円通寺の地蔵尊を玉甫上人に乞い、当山のご本尊として安置しました。
 この地蔵尊は、弘法大師が諸国を行脚の折、疫病が流行しているこの地で、人々の苦難する姿を目の当たりにされ、平癒祈願をするために刻まれた地蔵菩薩とされています。
 この時貞治六年(1367)、玉甫上人を一山の開基とし、景清山寶性寺往生院と名付けられたと記されています。
 以来、藤原景清一族の位牌とお墓を供養するするお寺として、現在に至っています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

景清山 往生院 寶性寺(鏡野町)の続きを読む

美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」

fukushimake601.jpg

福島善兵衛 大庭郡目木村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 福島氏は、もともとは鎌倉幕府のもとで、伊豆福島郷に居を構え北條高時(1303-1333)代に故えあって四国土州七條公に仕え、土州安芸郡、讃州三野郡託間塩生構城・豫洲国分寺金甲山居たと伝えられる。享徳3(1454)年長宗我部元影により落城となる。一族を連れて安芸を経由して、美作の国勝山高田城の三浦氏を頼り作州の地につき、三浦氏に仕えたことに始まる。・・・19代一信(伊織介)の時。
文亀年間(1501ー1503)高田城三浦貞連の元で、山名右近亮の守護する篠向城を陥落させ城代として入城した。以来、21代玄蕃允 一盛(-1526)、22代玄蕃允 満則(-1548)、23代玄蕃 盛親(一則)-1584)75年間 篠向城を守護した。(23代玄蕃一則を目木構の祖とする)
天正4年(1576年)毛利・宇喜多連合軍により勝山高田城主三浦が滅ぶ。福島・金田が守護していた篠向城も陥落し、城から逃れていたが、宇喜多の家臣・江原氏に仕えた。福島盛親(玄蕃一則)の子・七郎右衛門は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従い帰国後高麗犬を米来神社に寄進した。城主江原は釜山で病没し、その後関ケ原の戦いで西軍が負け宇喜多は改易され、福島、金田も帰農した。
江戸時代に入り、森藩により、大庄屋となる。

美作の大庄屋巡り「福島家 福島善兵衛」の続きを読む