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安田橋

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 明治八年、東京に師範学校ができ、箕作秋坪が校長になったとき、秋坪は漢学の教授として津山から親せきに当たる大村桐陽(斐夫)をよんだ。この人にまつわることだが、安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。

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和歌神社(一方)

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和歌神社の由来
 美作や久米のさら山さらさらに
  わが名は立てじよろづ代までに
 今から一千余年前清和天皇が即位されて最初の新嘗祭に神に供える穀物を奉納する国として美作の国が定められた。その貢物の献進に際し美作の国歌として奉唱したのがこの歌で古今和歌集にも記されている。以後、"久米のさら山"は一躍世に出て名所となり、やがて平安時代の和歌全盛期を迎えるにおよんで久米のさら山を詠んだ歌は数少なくはない。
 和歌神社はこうした和歌の歴史の残る久米のさら山を永く後世に伝えようと修理の太夫顯季卿が美作の国を治めていたとき和歌神をここに祭り和歌の宮と称したことに始まり久米郡誌にも載せられている通りの由緒ある神社である。
 なおこの神を敬い祀れば学問が大いに進むことから今では世にひろく崇められている。(文:境内案内より)

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明けましておめでとう。2019年1月イナバ化粧品店

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 平成31年(2019)明けましておめでとうございます。
今年もファンの皆様と偶然でもお会いできますこと楽しみにしながら、ママの追っかけをしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
 早速ですがイナバ化粧品店の仕事始めの1月4日にお店に伺ってきました。すでに店内には身動き出来ないほどのお客様でいっぱいです。イナママもすごくお元気で「今年もよろしくねぇ~」とご挨拶。(上記写真はイナバ化粧品店提供)

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2019 徳守神社の初詣風景

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 平成31年元旦の初詣風景です。
徳守神社の初詣の参拝者は境内入り口鳥居の外に続き行列となっていました。境内ではお焚き上げの炎の近くで若者が大勢集まっています。また、おみくじやお守りを買い求める方で賑やかです。今年が皆様にとって良きお年となりますように。

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水墨画家 阿部風木子氏(1923~2018)

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 墨に生きる 書・水墨画等思い出と感謝 阿部風木子
 2018年11月23日に亡くなった阿部風木子(阿部正直)氏ですが、いつかお目にかかりたいと思いながら月日が経ってしまいました。ただ生前に掲載の許可だけは戴いていましたので掲載させて頂きました。生家から生前の風木子氏の事も伺って来ました。
 岡山県美作市出身。大正12年生まれ。水墨画や書は、教育者だった父の影響で幼いころから始めた。雅号の「風木子」は、父(風木)の子だから風木子。

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徳守神社社殿 県指定重要文化財(建造物)

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 当社の由緒については諸説あるが、徳守宰相を祀る「勅使宮」であるとする『森家先代実録』『作州記』等の説と、天照大神を祀る「勅旨宮」で天平以前の鎮座とする『美作風土畧』等の説との二つに大別できそうである。矢吹正則は『徳守神社誌』において「伊勢神廟ヲ勧請シ奉リシモ古キ御事ニテ一度皇太神ヲ合祭シ奉テハ之ヲ主神ト仰キ奉ルハ尊神ノ衷情二出シモノニテ敢テ祭神ヲ左右セシモノニハ非ルへシ」と合理的に解釈している。古代の総社宮での重陽祭では、幣を奉納する近郷八社の一つであったという。
 天文8年(1539)に焼失したが、慶長9年(1604)春、森忠政が築城に先立ち、津山の鎮守として徳守神社を再建、同年内に落成して遷宮され、新田村において70石の社領を寄附された。2代藩主森長継は寛永14年(1637)さらに10石を加増し、寛文4年(1664)に社殿を新築した。現在の本殿・釣殿・拝殿がこれに当たる。

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ウタおばあさん奮斗記『山西の民話』

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 天保五年庚午の年、師走の十五日丑三つ時だった。慌ただしく戸を叩く音に、じいの種右衛門が目を覚まして出て来た。戸をあけると三人組の強盗が押入って来てすぐとっ捕まえられ、次ぎ次ぎに家人をおこして、みんな高手、小手にしばり上げられ、さる口輪をはめられた。家の中をあちこちと探り廻りめぼしい品物をみんな集めた。強盗は三人組であったが外にまだ何人かいるらしい様子だった。衣類や貴重品を出させたが、目ぼしい品物がなかった。蔵をあけて中の品物をとろうと思って、蔵の鍵を出させて蔵をあけようとしたが、この鍵は特殊な鍵で、コザルが五個合わないとあけられない。強盗はあせって誰かこの鍵で蔵をあける奴はいないかと言うた。その時ーウタおばあさんが「妾があけてあげる」といった。強盗はウタおばあさんをほどいて蔵につれていった。

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大山みちを歩こう会(第5区)

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大山みちは、信仰と牛馬の道です。霊峰伯耆大山への参詣を目指す旅人と博労座で開催される市へ向かう牛馬の群れが行き交った道です。大山みちは、岡山市の足守より粟井温泉~掛畑~千升乢~加茂市場~尾原~真庭市鰻田~鹿田~落合~久世~三坂峠~禾津~藤森~延助~内海乢を経て、鳥取県御机~鍵掛峠~大山寺に通ずるルートです。現在ではその殆んどが一般道路に併合吸収され、往時の姿を留めている箇所はあまり見ることは出来ません。
現在、「大山みち」を6分割して、歩く会が実施されていますが、今回はその5回目(5区)に当たります。5区のコースは2コースに分かれます。本道は、柞乢越えで距離も短く急ぎの旅人に利用されて来ました。もう1つのコースは、湯原温泉に1泊して休養を取り、旧二川村の三世七原、小童谷(湯原ダムにより水没)を経由して、野田で本道に合流する道でしたが、現在は消滅してたどることは出来ません。
歩く会は、あと6区を残すのみとなりました。第1回は平成26年に既に終えていますが、釘貫小川から三坂峠を越えて久世に至る峠道です。この間は全体の約70%が山道です。第5・6区も山中の道で、それに次ぐ昔の面影を最も残している区間と言えます。  (第2回の様子はこちら

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法雲山 妙願寺書院北庭に建つ郷(渓花院殿)のお墓

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 忠政の後を継いで津山二代藩主になったのは関家の流れである外孫長継である。1年後の寛永12年江戸に着いたその日の2月11日、池田備中守長幸の息女お鶴(大御前)と婚姻した。その次年の寛永13年には、将軍徳川家光の命により江戸市谷御普請手伝いとあわただしい消光の中、紹向とのトラブルもあった。長継27歳の時である。
 長継と紹向は従兄弟同士であって、長継は紹向を「親兄の如く」慕っていたのであるが、妙願寺再建立のことが紹向の意のままにならず、「諸子末寺一等に退院」したのであった。ここに注目すべきは「末寺」という表現である。四ケ寺が建立されて、本願寺がその寺号をいつ認めたかは定かでない。また、妙願寺が造営された後に寺中四ヶ寺誰が寺務をとっていたのかも不明であるが、寺院の形態として、妙願寺境内地南側に長泉寺・養元寺・教念寺・善正寺の四ヶ寺かあるいはその一部の寺が造営されていたことは間違いないと思われる。なお、長継の時代には盛んに寺社の造営が行われている。また、寺社とは別であるがこの頃は嗣子以外の男子に一家を創立させて分地を与え、幕府に願い大名の列に加えることが行われていた。

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