作州城東屋敷(津山市中之町)
作州城東屋敷【無料】 2014.3.16
作州城東屋敷はもともと出雲街道に面した町家の跡地に建ち、明治8年以降教育の場として長く親しまれた地です。真横に復元された火の見櫓が聳え立ち今では城東地区のシンボルになっています。(前回の取材はこちらで!)
作州城東屋敷【無料】 2014.3.16
作州城東屋敷はもともと出雲街道に面した町家の跡地に建ち、明治8年以降教育の場として長く親しまれた地です。真横に復元された火の見櫓が聳え立ち今では城東地区のシンボルになっています。(前回の取材はこちらで!)
長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2014年4月6日)
現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。
(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)※前回の取材に詳しく載っております。
東谷の香山太郎宅の前の坂道を東に越すと、近平井手のほとりに御影石の石碑が建っていて、正面中央に「奉日書寫般若心経一千巻供養塔」右に「天明七丁未歳十月十五日始」
左に「寛政二庚戌暦六月十七日迄」と刻まれている。裏面には「一天太平四海静謐風雨順時五穀豊登萬民快樂殊者信心之願主」と願意を記し、「上高倉村住人香山清志謹言」とある。また両側面には、四国八十八箇所霊場を回り、当国三十三所に書写した普門品(観音経)を納めたことが記されている。
下高倉東公会堂の東真向いの山すそにお大師堂がある。古くからこの場所には苫勝霊場第3番札所の大師堂(本尊 聖観世音・薬師如来・弘法大師)があって、戦前の霊場巡りが盛んな頃は、甘酒などを振る舞い賑わっていた。
平成2年に下高倉東全戸からの浄財によって改築し、有重(ありしげ)にあった苫勝霊場第52番札所の観音堂(本尊 十一面観世音・伝教大師)を合祀した。堂内には二つのお堂の本尊が安置されている。
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津山名産の「初雪」は、淡い甘味のあるかきもちで、火鉢を囲んでひとつひとつあぶり少しさましてから食べます。
この「初雪」は、後醍醐天皇が、北条高時によって隠岐に流される途中に、津山の院庄で一夜を過ごされたとき里人が献上したという伝承があります。
また、旧津山藩主松平家の資料の中から購入代金の領収書が見つかっています。
この領収書は明治17年に墓参りのため津山に来た松平確堂が、東京に帰ってから津山土産として配るために購入した時のものだということです。
この「初雪」がお土産に選ばれた理由は、長期間保存が出来ること、軽いことだそうです。これらから、昔から初雪を贈答品として使う習慣があったのかもしれないということでした。
明治の初めまでは数十件のお店が初雪を作っていましたが、大正初期には16軒、今では武田待喜堂1軒のみとなっています。伝統を守り続けると言うことは大変なご苦労があると思います。津山名産の「初雪」をこれからも守り続けてくださいね。(2012年6月18日取材)
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沼住居跡のさくら、 メチャ綺麗なもみじ、 弥生の里文化財センター
津山市沼、津山盆地が見渡せる丘の上にある弥生時代の集落跡。竪穴式住居・高床式倉庫・作業場があったとされ、現在ではそのうち、竪穴式住居1棟と高床式倉庫1棟が復元されています。隣接の津山弥生の里文化財センター(入場無料)で発掘成果などを見学できます。(2012年7月31日)
沼弥生住居址群《昭和31年7月4日津山市指定記念物(史跡)》
昭和27年、最初の発掘調査が行われました。調査は、その後数次に亘って行われ、円形・隅丸形などの竪穴式住居址5棟、長方形竪穴住居状遺構1棟、高床倉庫址3棟、そして住居址群と倉庫址群を分断する溝状遺構などが検出されました。このうち最大のA竪穴住居址は、火災により廃棄されたもので建築部材が炭化して残っていました。
出土遺物には、中・後期の弥生式土器片、稲の穂を刈り取るための石包丁、手斧(ちょうな)とされる扁平片刃石斧、たたき石などがあります。
沼弥生住居址群復元住居(津山市沼597-1)文:「津山市の文化財」より抜粋
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▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。
「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材
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2012.4.21
牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
プロテクターでピカソが実際に書いていた速度や、ピカソの生の声がビデオで流れ、とても面白く拝見しました。(取材2011年8月21日)★2010年の取材、★2009年の取材
保田扶佐子美術館/開館時間10:00am~5:00pm/開館日 土曜日・日曜日/観覧料 無料/
《保田扶佐子プロフィール》抽象画家・版画家
1942年10月20日。岡山県津山市に生まれる。1981年よりスペイン・バルセロナを拠点に活動する。個展、グループ展多数。絵画、版画のほか、多くのアーティストブックで画家、詩人、作曲家たちと共同制作している。現在はバルセロナと日本を往復しながら活動中。
▲篠山城跡(2011.4.10)
早春の佐良山の東面に位置する山々は、可憐な白い花弁を一杯に広げた純白の「辛夷」の花で彩られます。その中でも一番美しい群生を見せる場所として、「篠山」があげられます。
佐良山には「佐良山三座」と称される山々があります。「嵯峨山」「神南備山」そしてこの「篠山」です。古歌に「美作や久米のさら山さらさらに わが名は立てじ萬代までに」と謡われた「久米のさら山」を巡って、諸説が飛び交いいまだ決着を見ていない佐良山を取り巻く秀峰をいつしか「佐良山三座」と呼ぶようになりました。
ちなみに嵯峨山には、これぞ「久米のさら山」であるという「佐良山碑」(市文化財)が津山藩により1816年に建立されていますが、それはそれとして佐良山の人たちはこの美しい山々をこだわりなく誇りに思っていると思われます。