楢村の稲荷様(楢)
稲荷大明神を祭った社が鷹(高)山にあり「稲荷様」と呼んで楢村の商売繁盛の神として村の人たちに敬われていた。山の北面中腹に岩倉を背にして社がつくられ、西側の近長道から鳥居をくぐった参道が右折して2,3段の石段を上がるともう一つの鳥居がある。そこから15.6mの石段を上ったところに社がある。
稲荷大明神を祭った社が鷹(高)山にあり「稲荷様」と呼んで楢村の商売繁盛の神として村の人たちに敬われていた。山の北面中腹に岩倉を背にして社がつくられ、西側の近長道から鳥居をくぐった参道が右折して2,3段の石段を上がるともう一つの鳥居がある。そこから15.6mの石段を上ったところに社がある。
吉見神社 所在 神庭村大字吉見
大日靈尊・大己貴命を祀る。元和2年9月字岩尾山鎮座女一神社(祭神大日靈命)國司神社
(祭神大己貴命)を合祀し、字京上に轉祀す。女一社は仁壽元年3月、國司は安和元年9月の勸請と傅へらる。明治6年村社に列せられ吉見神社と改稱す。大正6年無挌社12社を合祀す。後神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
上部神社 所在 神庭村大字草加部
譽田別命を祀る。天照大御神及び天兒屋根命を相殿とす。初め欽明天皇32年天照大神を祀り上部大神宮と稱す。次て清和天皇貞勸2年更に譽田別命を勸請し天照大御神及び天兒屋根命を相殿に祀り上部八幡大神宮と改稱し、養和中初めて放生會を行ふ。明治6年村社に列せられ上部神社と改む。同40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
山本神社(高野山西)2015年1月25日取材
山本神社は昭和14年11月吉日 山本繁俊さんが建てたもので個人所有のものです。
山本さんのご親戚の方がお掃除などをされていて、今でも年一回お祭りをしていらっしゃるそうです。
高野山西にある夏目荒神社(2014年7月3日取材)
地元の人に伺うと、この荒神様の祭礼は今はしていないとのことでした。(昔は年に4回祭りをしていたそうです。)また、残念なことに由緒沿革も解らないそうです。現在は地元の人達32軒程がお祓いをされているそうです。
陽地神社 『美作國神社資料』には、「苫田郡高野村大字野宇森 村社 陽地神社 祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神 祭日 例祭 十月二十日 祭殿 本殿 拝殿 幣殿 神楽殿 境内坪数 六百参坪 氏子戸数 弐百戸 境内神社 高先神社 祭神 倉稲魂命 由緒沿革 不詳」とあります。
『作陽誌』では、「高野郷野村之記」に「陽地神社大明神 森に在 祭神 大日霊尊或云山田大蛇 本社 拝殿 参籠殿 石鳥居 社地東西南北十六間 祭日 九月九日」、「舊地釈迦大明神と号す往古の軒札なし」の説明とともに「元禄六年癸酉九月 地釈迦大明神」の軒札図を載せ、
『美作國神社資料』には「苫田郡高野村大字高野山西字菅田村社 山西神社 祭神 莬道雅郎皇子 祭日 例祭十月二十日 本殿 拝殿 境内坪数 弐百五拾坪 氏子戸数 八拾個(当時) 由緒沿革 不詳」とあります。「新訂作陽誌」には、「高野郷 高野山西村之記」において、「乙宮大明神 菅田分氏神乙宮に在 祭神 八幡の分神と云ふ 本社三尺五寸四方東向 拝殿二間三間 社地東西五十間許 祭日九月十四日」とあります。境内には、荒神社と天満宮が祀られています。
高良神社 (押入)
『美作國神社資料』には「苫田郡高野村大字押入字押入字上押入 村社 高良神社 祭神 武内宿禰命 祭日 十月二十日 社殿 本殿 神楽殿 氏子数 四十五戸 境内神社 荒神社 祭神 素盞鳴命 由緒沿革 不詳」とあります。『作陽誌』には「高良大明神 一村氏神或いは本郷北村も聯加 祭神 武内大臣 本社 祭日 九月 末社 若宮大明神 境内に在」とあります。祭神の武内宿禰命と武内大臣は同じ神様です。この武内宿禰命は、景行天皇、成務天皇、仲衷天皇、応仁天皇、仁徳天皇の五天皇に仕えること在官二百四十余年の人です。
福力荒神社大祭は、2015年はは2月19日(木)~2月21日(土)の3日間でした。(旧正月)
福力荒神社は、まむし除けと安産の神様として知られています。(蝮除け・子授け・安産・家内安全・学業成就・交通安全・商売繁盛・良縁等の御利益)2008/2014
3ケ日には安産・蝮除け・学業成就など願う10数万人もの参拝者で賑わい、参道には200軒もの露店が立ち並び全国各地から来ている露店で買い物し、お店の人とのトークも楽しめました。
北山に、こあざ五輪谷といわれるところがあります。
ここには、くずれ落ちてうもれた五輪墓の墓石がたくさん出てきます。くわしく調べられていないので、どのくらいの数がうまっているのかわかりません。
今までに、出てきた墓石を一か所に積みあげてありますが、およそ百こ以上もあります。組みたてたら、りっぱな五輪墓となることはまちがいありません。
では、なぜこの地にこのような五輪石がたくさん出てくるのでしょうか。研究している人の話では、ここにお寺があったのだろうということです。五輪石は仏教の墓だからです。
石の大きさやかたちなどから考えて、室町時代から戦国時代のおわりまでのものではないかといわれています。さらに、くわしく調べると、文字のきざまれた石も発見することができるかもしれません。