森藩政下に移転 山上がりした真言宗の髙福寺
林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。
林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。
野介代のお薬師様 施主 勝田郡植月北村 早瀬兵作。御親戚にもなる菅野昭夫さん(野介代の塞ノ神社奉納)によれば、早瀬氏は出雲のお薬師様の熱心な信者でもあり、とても裕福であったそうで、作州一円に薬師堂を作るといい、職人さんを連れて建てている最中に亡くなったという事でした。ここのお薬師様は十九番目(取材2014年3月11日)
・お薬師堂とは薬師如来(やくしにょらい)という仏さまを祭ってある仏堂、または寺院の一般的な名前。
薬師如来は現世利益につながる仏として信仰されいて、大小あわせて、日本全国にたくさんの「薬師堂」がある。※現世利益(げんせりえき)=生きているうちに、いいことがあること。(野介代町内会からのおしらせより)
津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)
津山市林田755(若宮谷)。祭神 大巳貴命(オオナムチノミコト)(大国主命)。少彦名命(スクナヒコノミコト)。森忠政が鶴山城の鬼門の守護のため、元和6年(1620)3月23日大隅に遷座した。村民は氏神を失ったので、跡地に小祠を建てて若宮神社と称した。元禄年間(1697~1703)松平藩の時に大隅神社の旧号をとなえるようになった。末社 御先社、三宝荒神社。(取材:2014.6.15)
現在の公会堂があるところが、地蔵堂と呼ばれている。東作誌に地蔵堂(小庵あり林田上ノ町大信寺持)。地蔵堂(御薮坐の内にあり)二か所ある。(2014年6月26日取材)
津山市玉琳 大日如来 牛馬安全
大日如来を牛馬神とする信仰は美作に多い。「大日如来」と刻んだ自然石が路傍に多い。
牛馬の供養塔である。(密教の曼荼羅の中尊の大日如来は牛馬神とは無縁である)
大山の大日堂(現在の大山寺本堂)が牛馬守護の神礼を配布した事情にもとづいている。
天明六丙午三月十四日 釋自焼●● 林田町長兵衛
親營窀穸 託身炎陽 不假天風 火帆自凉
※釋(浄土真宗で死者の法名の上につける語(淨円寺)
(東作誌)
林田町に長兵衛という独身の律義者がいて、死んだときに他人の世話になるが、こればかしはお礼のしょうがない、ということを気にかけ、70歳をすぎた天明6年(1786)の春、野介代の才ノ谷にあった焼場に自分で薪をもってゆき自殺した。それをあわれんで知る人達でこの碑が立てられたという。
ここには、信仰に関わる多くの石造物がある。
○回国供養塔《玉琳鎮座の石塔=文化11年(1814)》
回国供養塔は、通称 六部の碑と呼んでいるが、正しくは「全国六十六部廻国供養塔」のことである。世の平穏や民生の安定を願って全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて回る編歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に行脚が大衆化して、村々を回って戸ごとに拝み米や銭のお布施をもらって歩く、遍路姿の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは、廻国道中に仲間や村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりにこうした供養塔を建立した。
玉琳の三叉路付近は、人の出入りの盛んなまさに交通の要衝の地であり、近くに日吉神社も在ることから、絶好の位置に鎮座して祀られているといえる。(2014.6.15)
兼田の大きな道標と交通の近代化(明治末~)2014年6月29日取材
津山の最初の鉄製の橋、昭和5年にできた。旧出雲街道の川崎と河辺を結んで加茂川にかけられたこの橋は長さ90.5m、幅5.35m、現在は約70m下流に因美線の跨線橋を兼ねた国道53号線の新兼田橋ができている。
〔大聖寺の概略〕 山号を恵龍山と称し、今をさかのぼる1260余年前、天平10年(738年)、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩により開山、爾来、山岳仏教の聖地として五院(不動院、中院、奥の院など)十八坊舎(松の坊、池の坊、上の坊、地蔵坊など)の塔堂伽藍(とうどうがらん)を誇り真言密教(宗祖、空海)の根本道場として信仰をあつめ西の高野山と称されました。
しかし天正年間(1578年頃)の戦火で塔堂を消失、現在の本堂不動院、本坊客殿などは、津山城主、森忠政公(森蘭丸の弟)により慶長9年(1604年)に城主祈願所として再建されました。
また、当山は、歴代貫主(住職)が、京都蓮浄院(京都御室御所、塔中寺院)院主職をつとめ御所直轄寺院として高禄受祚の寺格を有しました。(文:別格本山 大聖寺案内より)(2014年6月24日取材)