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無量山 極楽寺(津山市加茂町)

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極楽寺縁起
 当寺は宇野にあって、無量山極楽寺と号し、真言宗古義派高野山理性院の末寺で、阿弥陀如来を本尊とする。開山は行基(668~749)と 伝えられる。もと字寺内にあって寺内山法幢寺と号していたが、元禄年中(1688~1703)に現在地宇野に移り新御堂山極楽寺と改め、のちさらに無量山 と山号を改めた。
 本尊阿弥陀如来像は、文政十二年(1829)に平城京真浄和上を開眼導師とし、妙法院(京都、三千院ー筆者)宮御内花房兵衛を 供養壇主として再興奉献されたもので、木造仏であり、三十三年毎開扉の秘仏である。また、三尊阿陀画幅は、古絹に三尊来迎図を描いたもので、京都、三千院 来迎仏にそっくりの名作である。また境内には直径4.6メートル、樹齢300年のカヤの木がある。(加茂町史 より)

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2012年 美作総社宮の秋祭りがありました。

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2012年10月15日、美作総社宮の秋祭りが執り行われました。

 宮の略記:今を遡ること千四百年以上前の事ですが、欽明天皇の御代二十五年、大己貴命(オナムチノミコト=大国主命)を御主祭神として御祀りされたのがそもそもの始まりでございます。当初は、現在地よりも西の神楽尾公園の下あたりに祀られていたらしく、現在の場所にお遷しされたのは、元明天皇の御代、和銅六年に備前の国より美作の国が別れ、この地に国府が置かれ、相殿(アイドノ・同じ社殿内)に一宮(中山神社)の神と二宮(高野神社)の神を始めとして、美作の国九百十二社の神を合祀(ゴウシ)され、始めて総社宮と言う御社名が付けられたそうです。
 古くは国司等が祭典ごとに参列し、美作の国の総鎮守神として、地域内はもとより、国中の人々がこぞって参拝していたとのことです。
 その後、永禄五年(四百三十四年前)には、毛利元就公が今の御本殿の原型を造営され、社領をも寄進されました。元和八年には、森忠政公が、また明暦三年には森長継公が大修理を行いました。
 時は過ぎ、明治の時代になり、全国の総社の中で、当社のみが国宝に指定されました。

 指定の理由は、建築様式、彫刻などは言うまでもありませんが、御本殿本柱十六本の根元に、約一寸二・三分の根空が十文字に刻んであることです。理学博士・川村清一氏の発見に関わるもので、当時の大工が防虫に意を注いで刻んだものであります。全国の神社では、日光東照宮、大和談山神社の山門と当総社宮本殿の三ヶ所に在るのみだそうです。法改正により現在は国重要文化財に指定されていますが、国の宝、美作の地区の宝・氏子の宝であります。(文:美作総社宮造営記念誌より抜粋)前回の取材はこちら

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菊水山 公卿寺(加茂)

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菊水山 公卿寺 (津山市加茂町公郷1309)
縁起
 当寺は公郷にあり、菊水山公郷寺と号し、聖観音を本尊とする天台宗比叡延暦寺の末寺である。
 『東作誌』によれば、開基は「貞観二丙辰年(貞観二年は庚辰-筆者)慈覚大師作州に台宗の仏寺を開かれし六十余ヶ寺の其一員なるべし」と推定している。明和年間(1764~71)に旧称水尾山真福寺の寺号を菊水山公郷寺と改めた。「東西百間余。南北百二十間余」の広い境内(『東作誌』)をもち繁栄したこの寺は、文化十二年(1815)には「漸く寺号を残して苧堂に等しき一宇を遺すのみ」(『東作誌』)と衰退していた。
 本尊聖観音像は、慈覚大師円仁(794~864)作と伝えられる(『東作誌』)一尺二寸の寄木造の木造仏である。また現存する三間四面の本堂および門は文久年間に建てられたものである。檀家は文化十二年(1815)に二百四十戸、現在二百五十戸である。寺の年中行事に、正月の日待祭がある。
本尊 聖観音、年中行事/正月 日待祭(「加茂町史」神社と寺院より)2012年8月22日取材

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妙法山 経王寺(津山市下野田)

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 山号は妙法山、日蓮宗・日蓮宗津山妙法寺の末寺でした。『下野田誌』によれば、本尊は三宝尊・宗祖尊像です。天正(1573~92)のころ、宇喜多氏の老職をつとめた岡豊前守家利が植月中村(現勝央町)小山の堡(宮城城)に住み、元亀時代(1570~73)に討ち死にした親せきや家来の菩提を弔うため、京都の日蓮宗妙顕寺に請願して宮山城跡の下に寺を建立し、妙法山経王寺と号しました。そののち本寺を下野田村に移転しました。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年9月28日・10月2日取材

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加茂神社には崇道天皇の御陵がある。

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加茂神社由緒
鎮座地 津山市加茂町公郷字菊水山1,399番地
御祭神 味鋤高日子根命/伊弉諾命/大山咋命/伊弉册命
配祀  大巳貴命/崇道天皇
祭日  大祭 例祭 10月第2日曜日/祈年祭 4月29日/夏越祭 7月25日に近い土曜日/新穀感謝祭 11月25日に近い日曜日
本殿  流造
末社  八幡神社、御先神社、美保神社、英霊神社、養老神社、若宮神社、天満神社
 本社は、旧杉大明神と称し勧請年月興廃の沿革等不詳なりといえども、古昔より古老の口碑によれば往古苫北郡と称する時一ノ宮と尊崇される。桓武天皇の弟早良親王の御陵あるを以て崇道天皇と改称する。
 明治6年2月加茂神社と改称し、尚、能野神社、元公郷上分字高場に、又、日吉神社公郷下分字日野目に古昔より鎮座ありしを明治42年5月2日本神社に合祀した。昭和7年7月7日雷火の為炎上し同8年4月再建立する。昭和43年3月26日、加茂町指定文化財に指定された第一号秋草双雀鏡は青銅の鏡(平安時代)で境内裏山から明治15年に発掘されたものです。加茂町観光協会協賛 (看板より)2012年8月22日取材

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「愛される時間 北川宏人 ~津山とのきずな~」

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「愛される時間 北川宏人 ~津山とのきずな~」作品展について
棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)では、このたび「愛される時間 北川宏人 ~津山とのきずな~」を開催する運びとなりました。
北川宏人氏は、1967年滋賀県大津市生まれ。金沢美術工芸大学彫刻科を卒業し、1990年からイタリアへ留学しました。

特に1993年~1998年の間は、実家のある津山にて生活。イタリアの美術学院の夏休みに帰国し津山の工場で働きながら留学資金を得て、苦学しながら卒業しました。
その後、イタリアで彫刻活動を長年続け、現在は東京にて制作活動を行っています。
14年間の留学期間中、まだ日本国内では研究されていないテラコッタ彫刻制作の技術を学び、習得しました。その技術力をベースに、世界的に見ても独自性の高い次世代の人物彫刻を制作し続け、世界中から高い評価を受けています。
津山での滞在期間中に作られた作品は、現在も多くの作品が地元の愛好者によって各家庭で大切に愛され続けています。

「愛される時間北川宏人 ~津山とのきずな~」作品展の開催概要
開催期間:2012年9月29日(土)~2012年11月28日(水)
開催場所:棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館) 1F展示室

開館時間:10:00~17:00(入館受付は16:30まで) 
休 館 日:木曜日
入 館 料:500円(大学・専門学校生は300円。2F常設展への入場もできます。)

北川宏人氏講演会の開催概要
開催日時:10月8日(月・祝)15:00~17:00
開催場所:グリーンヒルズ津山・リージョンセンター ペンタホール

入場は無料。(予約、整理券等はありません。)

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五穀寺(旧勝北町大吉)


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五穀寺(大吉) 2012.9.2
 日本原高原を見渡せる高台にある五穀寺は、山号を作本山、院号を豊饒院とする真言宗東寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。寺伝によると応永年間(1394~1428)高野山宝性院宥快上人の開基と伝えられます。本寺の住職であった大僧正岩原諦信師(1883~1965)は、高野山大学の講師をつとめたこともあり、わが国の声明(仏教音楽)の権威として知られています。国語学者の金田一春彦氏が寺を訪れ、師の教えを受けました。(神社と寺院より)
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福井 薬師院猿の湯伝承の薬師様

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 福井八幡様の南側の麓から、勝央町にぬける道(工門勝央線)が通っている。その道に入ってなだらかな登り坂を数百mも行かないうちに、いわゆる火のかま古墳がある。その古墳から道路をへだてた東側の丘に、粗末な方1m余で背丈ほどの高さのお堂がある。なお、このすぐ近くには、広野小の初代校長松本譲先生のお墓もある。
 このお堂に、古くて塗りのはげた高さ30~40cmの仏様=お薬師様が安置されている。さらにその横には、年月を経て朽ち果て虫食い状態で頭と胴だけの、おそらくはその先代の仏様が並びおかれている。
 この薬師様は、火のかま古墳の下の谷筋より現在地に移されてはいるが、平安末期、新宮城の栄えていた当時、温泉の湧き出た薬師院の湯ゆかりの伝承をもつ仏様である。新宮山木下伝記によると、およそ次のような記述がある。
 新宮城主二代道衡(みちひら)の時、康平元年(1058年)この丘陵のすそ谷筋で薬師院というお堂を開いていた海常坊が、読経のさなか庭で湯浴みの音がするので、のぞいて見ると、大きな老猿が泉水に入っていた。驚いたことには、湯気が立ち昇っていて水が温かくなっており、泉水に湯が湧き出ていることを知った。海常坊は、直ちに城主に願い出、薬師院猿の湯という湯治場(とうじば)を設けることにした。やがて、傷も癒え、難病も平癒する薬湯のうわさが広まり、近郷近在から沢山の人々が入浴するようになって、大変な繁盛を迎えた。この結果、多くの湯銭かわりの賽銭賽米が貯えられることになった。その貯えは、海常坊(みたちぼう)の願いでにより、福井正伝寺に五重塔建立の資金となったと言われている。猿の湯は、その後74年間も続いて湧き出ていたが、長承元年(1132年)4月、他国の武士と浪人者が湯船で喧嘩・殺傷事件を起こしたため、湯の入れ替えを試みたところ、これを機として湯は出なくなり、温泉が途絶えたそうである。
(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年6月28日取材

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上賀茂神社(津山市原字荒神)

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 勝加茂原字荒神にある。祭神は火産霊神・素戔鳴命・味鉏高彦根命・下照姫命をまつる。原村往古より勝加茂西上(現上村)鎮座の若王子権現を産土神としたが、明治十年その氏子を離れてもともと荒神社のあった地に社殿を建立し、旧来の荒神社の祭神に西賀茂神社及び朝吉神社の分霊を勧請合祀して、上賀茂神社と号した。(歴史めぐり資料より)2012年7月8日取材

「美作神社資料」には、「和銅元年鎮座、大永五年山名太郎左衛門常清の社殿再興、正保七年以来氏子よりその費用を献進する」とありますが、その拠るところが明確ではありません。「勝北町誌」より

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曹洞宗 清涼山 正覚寺

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曹洞宗 清涼山 正覚寺 (2012年6月24日取材)
縁起
 当院は曹洞宗太源派に属する寺で、作陽誌には次の通りに記述されている。
 本尊千手観音 鎮守春日大明神 本寺夢中山幻住寺 境内東西百七十間南北六十五間となっている。本尊は千手観音となっているけれども現在の本尊は釈迦三尊であり、鎮守は白山大権現である。
 久米郡旭町大字北にある夢中幻住寺第二代の住職大庵洞益(1434~1461永享6年より寛正二年まで二十八年間住職)は長禄二(1458)年、今の大字宮部下、久保神社の西隣に地に小さな寺を建て、「普門寺」と称した。しかし此の寺は未だ本山からも認められておらず従って寺格もない平僧地であった。
 夢中幻住寺は永禄年中に失火、永禄九(1566)年より天正十九(1591)年まで二十六年間無住、其の後天正十九年に法山存悦が幻住寺に入った。
此の人は元和五(1691)年迄二十九年間住職として幻住寺の復興に尽して功績のあった人である。此の法山存悦が幻住寺復興に尽した経験と才幹をもって宮部地方の人々に説き、喜捨を集めて、寺地を宮部上村の王子に定め、前記の普門寺をここに移して寺院を建設したのである。
であるから此の寺の開基も開山も実際には法山存悦であるけれども、普門寺の開山である幻住寺第二代の住職大庵洞益を迎えて勧請開山に据えたのである。
時代はわからないが法山存悦の幻住寺10色在任中の天正十九年から元和五年に至る二十九ヶ年の間と推定する外ないのであって、かいざんは実際よりも百二・三十年も前に遡って長禄二(1458)年の普門寺の開山そのものが此の寺の開山とされたわけである。
 作陽誌(西作誌)は元禄二(1689)年から元禄六(1693)年までかかって森藩の編纂した地誌であってこの頃ではすでに山号(清涼山)も寺号(正覚寺)もあり、本尊は千手観音、鎮守は春日大権現で夢中山幻住寺を本寺とするちゃんとした寺院に成長していたのである。(全文:『 久米町史』より)
曹洞宗 清涼山 正覚寺 本尊 千手観音 (津山市宮部上1663)

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