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取材記事内を検索ワード「坂」で検索した結果,299件の記事が見つかりました。

方谷山田先生遺蹟碑(方谷園)(新見市)

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新見市指定史跡 方谷園 指定:昭和51年4月21日
 偉大な学者・政治家として、備中松山藩に仕え、藩主が幕閣の老中に登用されると江戸に随行し、徳川幕府の終末期の諸政の難事に当たり事実上の施策を誤らなかった山田方谷(1805~1877)が、明治3年かつての水谷新右衛門尉勝能の小阪部陣屋に私塾(小阪部塾)を開いた場所です。
 園内にある「方谷山田先生遺蹟碑」は、勝安房(勝海舟)による題字、三島中洲の撰文、筆は金井之恭によるもので、石碑を彫ったのは倉敷の藤田市太郎です。石碑は明治42年小阪部塾で方谷が息をひきとった時、枕のあった地点に建てられたもので、大正12年、方谷園として開園式が行われました。(犬養毅氏が開園式に来園し揮毫した。)新見市教育委員会(文:現地看板より転載)(2021年2月6日撮影)

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備中松山城「御根小屋跡」(高梁市)

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 岡山県指定史跡 備中松山城御根小屋跡
 御根小屋は備中松山藩の藩主の居城であり、藩の政務を行う役所である。
当藩では城が標高430mにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られたものである。北は臥牛山に接し、南は小高下谷川を堀に見立て、西は現JR伯備線で限られたほぼ三角形の地形で、その面積は約34,000㎡。旧制高梁中学校(現在の県立高梁高校)は、その跡地に建てられており、石垣は御根小屋の原型を今に伝えている。
 創建年代は不明であるが、天正3年(1575)の兵乱で焼失した記録があることから、その歴史は、戦国時代まで遡ることができる。現在の姿は、江戸時代初期に代官の小堀遠州が再建をはかり、天和3年(1683)当時の藩主水谷勝宗により完成された。
 幕末の資料では、登城には惣門を経て御殿坂を登り、中門を通って御殿に至る。中門の北側に作事処(現テニスコート)がある。高梁川で運ばれた米などは川端町で陸揚げされ、御蔵坂を通って米蔵に、武具は一段高い石垣上にある武具蔵(現運動場)に保管されていたことかが記載されている。
 備中松山城御根小屋跡は、平成3年4月に岡山県の史跡に指定された。

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冬の西毛無山(けなしやま)の樹氷

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 知人が登った2021年2月の毛無山の雪景色がとても奇麗だったので、写真をお借りしました。

西毛無山の樹氷をお楽しみ下さい。毛無山(標高:1218m、時間:1時間30分、一周:約3時間)
 田浪キャンプ場から山頂まで2時間、最近はトレランの方が山に入っているので、物凄い短時間のコースタイムがネットにUPしてありますが、普通は2時間ぐらいです。冬の毛無山登山は、未経験者は無理です。(末菅)

 9合目の休憩舎を過ぎ、山頂近くになると一気に展望が開ける。山頂からの眺めは抜群。北に弓ヶ浜かあ大山がそびえ、烏ケ山から蒜山三座が望める。さらに尾根を行けば白馬山から朝鍋鷲ケ山、三平山に続く。(文:真庭市のパンフレットより)(写真:末菅邦佐さん)

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2020「縁起年の瀬市」

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 2020年12月19日(土)ソシオ一番街で「七福神もちつき縁起年の瀬市」をはじめ、盛りだくさんのイベントが開催され、久しぶりに多くの方が来られて賑わっていました。
 午前11時から美作国七福神霊場会の僧侶による法楽、餅つき、銭太鼓の演奏、午後1時からは太極拳、大道芸、太鼓のステージなども。その他「手作りマルシェ」や津山ホルモンうどんも出展して会場は大盛り上がりでした。

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仁木永祐と籾山黌をめぐる人々

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令和2年度津山洋学資料館冬季企画展「仁木永祐と籾山黌をめぐる人々」
会期:令和2年11月28日(土)~令和3年2月21日(日)津山洋学資料館 企画展示室(津山市西新町5)


 津山市街の北方、籾保の丘陵に、高さ4メートル程もある、大きな石碑があります。この石碑は、江戸時代後期から明治時代にかけて、この地で医療や教育、政治に尽力した医師 仁木永祐を顕彰するため、門人や地域の人々によって建立されたものです。
 永祐は1830(文政13)年に下津川村(現在の津山市加茂町下津川)の中庄屋 豊田伊兵衛の四男に生まれました。江戸や大坂へ遊学して洋学と漢字を学び、籾山村(現在の津山市籾保)の医師 仁木隆助の養子となって地域医療に尽力。明治時代には自由民権運動にも参加して「美作の板垣退助」と呼ばれました。

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馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様

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 2020年11月8日、「出雲街道 勝山宿の会」主催で、つながる「出雲街道」を歩こう会の特別企画第二弾(大井西の会と共催)で、津山市中北上~宮尾間を歩いてきました。実際に歩いてみないと細かなところまでは分かりませんが、資料を片手に歩いたところを紹介してみます。
 このページでは、坪井下の馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様です。すぐ近くには餝摩津(しきまず)斉七塚鶴亀神社(鶴坂)・鶴坂神社等があります。

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田熊字福本のなぞの石碑その後

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 前回組んだ田熊の謎の石碑の後、2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加したのをきっかけに、勝央町文化財保護委員長の赤木耕三さんに、「我が家の山の中に、大きな石碑があるんだけど解らないから気になって仕方がない。」と相談したところ「そりゃ~解明せにゃ~いけんじゃろ。」ということになり、10月10日に赤木さんが現地に来て判読してくださいました。この時は判読できないところが少しあったそうで、再度12日に来てくださって「完全に判読できた。」と赤木さんから連絡が入り、喜び勇んで現地に行き説明を聞きました。(その後も何度か足を運んでいただいたそうです。)
 正保4年(1647)8月に建てられた供養碑であること、南無妙法蓮華経 日心院宗有 施主 ニ木宗一〇尉であることが確認でき、福栄山寿林寺2代目の住職が祈祷、二木氏が施主であることが分かりました。

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出雲街道を歩こう会「坪井宿」

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 2020年11月8日特別企画(第2弾)「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」に参加してきました。久米ふれあい学習館をバスで出発、岩屋城麓に着き簡単な説明を受け徒歩出発しました。約4時間ほどかけて無事久米ふれあい学習館に戻ってきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 今回は「つながる出雲街道(東部Ⅱ)」を歩こう会より、特別企画 第2弾として、大井西の会の応援を得て、共催で開催されました。津山市・中北上~同・宮尾間7.8km(実質9.0km)

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物見観音堂の(北土居)

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○概要
 ・所在地 津山市加茂町物見136-1番地
 ・本堂  行基菩薩 ※元は、加茂町毎見稽行山に鎮座
 ・現本堂 延亨3年(1746)2月建立
 ・棟梁  智頭郡真貝野村の住人、内海利左エ門
 ・聖観音 千手観音(四国足摺山金剛福寺)より奉納 
      熊谷直実(1141-1207。平安末期~鎌倉)寄進と伝えられる。
 ・加茂郷八十八ヵ所27番札所(旧36番)
 ・石碑  亨保7年(1722)、因幡の住人、石工・吉田与六エ門 建立
      延亨3年(1746)、福善寺・阿闍梨本了法師 供養


 昔から百万遍供養(数珠回し)が行われ、物見部落の各戸を回って供養が行われていた。終戦後一時中止したが復活し、今は毎年8月吉日に物見町内会が物見老人会に委託して行われている。供養は、福善寺・新城住職が行う。
 なお、近年、津山市観光協会北支部が「加茂郷八十八ヵ所巡礼」を春と秋に行うので、接待も行っている。

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出雲街道、勝間田宿「下山家古文書展」

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 令和2年10月27日(火)~11月8日(日)まで、勝央美術文学館町民ギャラリー1で「出雲街道勝間田宿 下山家古文書展」が開催されています。

はじめに
 出雲街道は、古代には畿内と出雲を結ぶ道として発展し、人々や文物が行きかう交通の要路でした。江戸時代になると参勤交代のため街道が整備され、休憩や宿泊の拠点として整備されていきました。
 勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして栄えていました。宿場内には、諸藩の参勤交代にあたって、大名や供の者が泊まった旅舎が二つあり、おもに津山藩主などが宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主などが宿泊した木村本陣がありました。今回の展示では、下山本陣と本陣を営んでいた下山家に焦点を当て、関連の古文書を展示いたします。

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