仁木永祐と籾山黌をめぐる人々

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令和2年度津山洋学資料館冬季企画展「仁木永祐と籾山黌をめぐる人々」
会期:令和2年11月28日(土)~令和3年2月21日(日)津山洋学資料館 企画展示室(津山市西新町5)


 津山市街の北方、籾保の丘陵に、高さ4メートル程もある、大きな石碑があります。この石碑は、江戸時代後期から明治時代にかけて、この地で医療や教育、政治に尽力した医師 仁木永祐を顕彰するため、門人や地域の人々によって建立されたものです。
 永祐は1830(文政13)年に下津川村(現在の津山市加茂町下津川)の中庄屋 豊田伊兵衛の四男に生まれました。江戸や大坂へ遊学して洋学と漢字を学び、籾山村(現在の津山市籾保)の医師 仁木隆助の養子となって地域医療に尽力。明治時代には自由民権運動にも参加して「美作の板垣退助」と呼ばれました。

 永祐の業績のひとつに、郷校 籾山黌の創設があります。1860(万延元)年、隆助らと共に藩の許しを得て開いた籾山黌には近郷から多くの門人が集まり、主に漢字や医学の教育が行われました。明治時代になり、学校制度が整備されていく中で籾山黌は閉校されますが、その歴史の中で井手毛三(衆議院議員)、中島大次郎(苫田郡医師会長)、米井源治郎(麒麟麦酒創業者の一人)ら、明治の世を担う人々を育てました。
 本展では、永祐の生誕190年を記念し、永祐の生涯と籾山黌をめぐる人々についてご紹介します。
令和2年11月28日 津山洋学資料館

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津山洋学資料館

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没後も地域で慕われる
 永祐没後20年余を経た1926(大正15)年、永祐の業績を後世に伝えようと、籾山黌門人らが中心となって籾山黌跡地の傍らに顕彰碑を建立しました。建設委員長を務めたのは中島大次郎で、門人と有志が寄付金を集め、最後の元老 西園寺公望が題字「蔊渓仁木先生碑」を揮毫しています。

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 その後、80年以上が経過し、碑文が漢文で読みづらいこともあり、内容を分かりやすく紹介する解読案内板を隣に建てることで、改めて永祐を顕彰しようという機運が地元を中心に高まります。
そして2010年(平成22)年11月、籾保町内会や仁木家ご後裔をはじめ、津山市医師会、洋学資料館友の会などの有志が集い、「仁木永祐生誕180年記念事業会」が組織されました。

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 事業会により募金活動が行われ、解説板の新設に先立って、顕彰碑の周囲にある玉垣の修復工事も実施されました。建立当時の姿を取り戻した顕彰碑に見守られる形で、2011年4月除幕式が盛大に行われたのでした。(文:津山洋学資料館内案内より)(2020年12月5日撮影)

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仁木家ゆかりの史跡紹介パネル

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洋学資料館前庭のクコの実

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ネズミモチの実

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津山洋学資料館内に飾られたヒンデローペン

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中庭で収穫されたカリン             カリン

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津山洋学資料館のある城東町並み保存地区の様子です。