方谷山田先生遺蹟碑(方谷園)(新見市)

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新見市指定史跡 方谷園 指定:昭和51年4月21日
 偉大な学者・政治家として、備中松山藩に仕え、藩主が幕閣の老中に登用されると江戸に随行し、徳川幕府の終末期の諸政の難事に当たり事実上の施策を誤らなかった山田方谷(1805~1877)が、明治3年かつての水谷新右衛門尉勝能の小阪部陣屋に私塾(小阪部塾)を開いた場所です。
 園内にある「方谷山田先生遺蹟碑」は、勝安房(勝海舟)による題字、三島中洲の撰文、筆は金井之恭によるもので、石碑を彫ったのは倉敷の藤田市太郎です。石碑は明治42年小阪部塾で方谷が息をひきとった時、枕のあった地点に建てられたもので、大正12年、方谷園として開園式が行われました。(犬養毅氏が開園式に来園し揮毫した。)新見市教育委員会(文:現地看板より転載)(2021年2月6日撮影)

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新見市指定史跡 方谷園

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新見市指定史跡 方谷園

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小阪部知行所(陣屋)
 将軍直参の家臣である旗本に対して徳川幕府は、それぞれの格式に応じて領地をあたえた。この領地を「知行所」といった。寛文4年(1664)7月水谷新右衛門勝能は禄高弐千石の領地をあたえられ、小阪部知行所の始祖となり、ここに陣屋をおき、その後7代水谷勝静に至る明治維新まで200余年続いた。領主は代々江戸に居を構え、陣屋には「代官」を置いて総てを家臣にゆだね、小阪部村、永富村、千谷村及び小南村(分家量)を一括して治めさせた。
 小坂部陣屋の敷地面積は、542坪(1792㎡)を有し、代官の住んで居た家屋、役人が公務を処理した役舎のほか、手代の住んだ長屋、穀倉庫などが建てられていた。陣屋の構造もそれとなく威厳を示すために大門、小門、玄関などを配した。現在も陣屋礎石の一部が見られ往時がしのばれる。大佐町教育委員会(文:案内板より転載)

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新見市指定史跡 方谷園の中にある忠魂碑     園内にある「方谷山田先生遺蹟碑」

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勝安房(勝海舟)による題字、三島中洲の撰文、筆は金井之恭によるもので、石碑を彫ったのは倉敷の藤田市太郎です。

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小坂部陣屋址(2021年2月6日撮影)