田熊字福本のなぞの石碑その後

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 前回組んだ田熊の謎の石碑の後、2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加したのをきっかけに、勝央町文化財保護委員長の赤木耕三さんに、「我が家の山の中に、大きな石碑があるんだけど解らないから気になって仕方がない。」と相談したところ「そりゃ~解明せにゃ~いけんじゃろ。」ということになり、10月10日に赤木さんが現地に来て判読してくださいました。この時は判読できないところが少しあったそうで、再度12日に来てくださって「完全に判読できた。」と赤木さんから連絡が入り、喜び勇んで現地に行き説明を聞きました。(その後も何度か足を運んでいただいたそうです。)
 正保4年(1647)8月に建てられた供養碑であること、南無妙法蓮華経 日心院宗有 施主 ニ木宗一〇尉であることが確認でき、福栄山寿林寺2代目の住職が祈祷、二木氏が施主であることが分かりました。

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現場で待っていてくださった赤木さんです。

 また、偶然通りかかった古老が「ここの道は、出雲街道いうんで。昔この先には古墳があって刀などが出てきたんで!」と話してくれましたが、真相は解りません。

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草刈りまでしてくださって申し訳ない。

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この山は「寺山」と呼ばれていますが、現時点で寺の名前は調べても解りませんでした。
 後日赤木さんから連絡が入り、「詳しい人に聞いたら、この碑に書かれている字は日心さんの字であること、また、この時代は平和な時代で大きな事件はなかったので、その昔の人の供養として建てられた供養碑とのことです。」と教えてくださいました。

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 正保4年(1647)8月とあり、この時代の碑は珍しく、歴史が解明できる貴重な碑だとのことです。ちなみに正保年間(寛永の後、慶安の前。1645年~1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。)はたった4年間で、この時代は江戸の初期で、徳川綱吉・松尾芭蕉が生まれ、 小堀政一(遠州)・宮本武蔵が亡くなった時代でもあり、また、津山藩では森忠政公が没して10年後のことで森長継の時代です。

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 施主の最後に、尉(じょう)とあるのは武士の事だそうです。
「この山が寺山と言うのなら、三星城の城主後藤勝基が宇喜多直家に負け、妻子が家臣と医王山城(標高340mの山頂に築かれた山城で、祝山城、岩尾山城とも表記されます。)に逃れるとき、追っ手に捕えられた所が近いので、諸説あるが、ひょっとしたら宇喜多直家が娘のため(後藤勝基の妻は宇喜多直家の娘)寺にかくまったという話もあり興味深い所。」だそうです。

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更に奥にあった碑は判読不可能でしたが、ここは墳丘のようで盗掘跡があるようだとの事でした。

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奥の石碑(表)                (裏)

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2020年10月13日に妹とお参りしてきました。

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長い間お参りして来なかった事をお詫びしながら。

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赤木さんから頂いた碑の文字です。         塚角村の下山様にも情報をいただきました。

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「三星城軍傅記 野田原合戦の古文書と読み下しです。文中の二木氏や片原の山寺などがあり、場所の特定が限りなく考えられます。この山が戦国史 野田原合戦場と思いませんか?」と赤木さんからのお手紙でした。


塚角村の下山様の情報
十三塚の事 勝央町植月中字大砂
 同地内に十三塚と呼ばれる墳墓がある。
天正年(今から426年前)現美作市の三星城が備前浦上宗景の臣、宇喜多直家により攻略され落城した。三星城の城主は後藤勝基で安芸の毛利に属していた、よって近辺の毛利氏に属していた、井の内城(下山村)、鷲山城(飯岡)、茶臼山城(周匝)と共に攻略された。
 落城は天正7年(1579)5月とも云われ、落城の際、城主勝基の家族が医王山城(吉見)に逃れようとしたがこの地で追手につかまり、全員殺害された。その墳墓とも云われている。
 尚、この地から200米程離れた処に「山上講」と刻まれた古い碑が建てられている。
 石碑の現存は少なく珍しいものと云われている。(碑の文字は判読しかねるが、南無妙法蓮華経とも推察されるが、今一度調査が必要とされる。)


祟りの墓地
 植月東字山根に字正藤(味噲塚古墳南)にやや広い墓地と云われている処がある。
この地は触れれば祟ると云う伝説があり昔、宝大寺の利権をめぐって地方の豪族達が二派に別れて激しく争いついに両派とも滅亡してしまった。この争いを今に伝える為か附近に小手切逧、手切逧の地名がある。
宝大寺は字奥常に在り、神仏混合で鳥居の一部が山根地内の北すみに残っている大寺であった。
 以上勝央町史の中から見出しましたが、時間があれば今少し調査すれば、何かの手がかりも見附られるかも知れません。(塚角村の下山様の情報)


田熊の法花石 津山市田熊(旧勝田郡廣野村)に、法花石と呼ぶ地名があり、山林雑木の中に、高さ五尺幅四尺位な岩石がありその岩面に
南無妙法蓮華経 ○○四丁○○八月 日
とのみ判読出来るものがある。此丁に就いては寛永四丁夘、正保四丁亥、貞享四丁夘、宝永四丁亥、延享四丁夘、明和四丁亥、文化四丁夘、弘化四丁未、等があり、此内の一に該当するものであることは推定せられ、此地は経王寺所在地の下野田と、指呼の間にあるので、日蓮宗信徒の多い下野田部落のもの等によって刻まれたものかと考へられるのである。(郷土史家 寺坂五夫さんの『日蓮宗法難史』の中にあると和仁三郎さんから教えて頂きました。)

三星城の後藤氏の末裔の方は今は黒瀬と名乗っています。
 日心は久成院日心、正保4年2月5日と記録があり、福栄山寿林寺2代目の住職のようです。福栄山寿林寺は美作市林野にあるお寺。本寺は京都妙覚寺、三星山と関係があるようです。
廃寺として三星山には、三星山宗国寺(日蓮宗)本山がやはり京都の妙覚寺です。別名、法寿山ともいわれていました。明見の三星古城跡の一角にあったと伝えられています。(文:2020年10月27日和仁さん提供)


 ここまで来るのに、多くの皆様に情報をいただき、赤木さんにより判読できたこと、また和仁さんの情報により住職やお寺が分かったこと、感謝に堪えません。歴史が苦手な私が、益々、この時代の事を調べてみたいと思えるようになりました。本当にありがとうございました。