城西のお雛まつり2019
2019年3月3日、雨がパラつく中でしたが「城西雛めぐり」をしてきました。作州民芸館イベント広場で行われた模擬店では焼きそばや、トン汁、かき餅などが売られていました。また、作州絣を粋に着こなした方が城西を歩いている姿を拝見すると、昔はこんな風景だったのかもしれないとロマンを感じました。
2019年3月3日、雨がパラつく中でしたが「城西雛めぐり」をしてきました。作州民芸館イベント広場で行われた模擬店では焼きそばや、トン汁、かき餅などが売られていました。また、作州絣を粋に着こなした方が城西を歩いている姿を拝見すると、昔はこんな風景だったのかもしれないとロマンを感じました。
西今町の西に連なる西寺町の更に西に接した町で、貞享年間(1684~1688)以前は茅屋町と書かれています。
寛永以降商いを営む者ようやくここに移住し茅町と称す。しかしながら市街に属するを得ず、寛文(1661)中、安岡町の人、渡邊藤左衛門義信の請願により、始めて市街に列し、地租を免ぜられる。貞享3年(1683)茅町に改む。(『津山市史』第3巻より)
もともと茅町は、城下の東西の一番端につくられた町といわれています。東の端にも萱屋町がありました。
若宮神社は神様のお子神であり、碑に「元禄13年再建」と刻まれています。境内末社には亥子神社があり「いのこ石」が祀られています。多賀神社は長命延命の神として知られています。東側に樹齢約400年の大木のケヤキがあります。吉井川改修以前の堤防に植え付けられていたといわれています。
神田のおこり
慶長9年(1604)に森忠政公が美作の太守として城下町を造る際に、各小川の流れを吉井川に集めました。当時は、紫竹川の支流が新田地区を流れていましたが、廃川となりそれが新田の開拓の源になったようです。
江戸時代、森忠政公の時代の津山城下の一町で武家地でした。
当時は鉄砲組の足軽を置いたことから西鉄砲町といわれました。後に東鉄砲町は中之町に編入されたため、鉄砲町となり現在に至っています。家臣が砲術修行の射撃をするのは、鉄砲町に南土手の東側で、藺田川と吉井川の合流付近に大砲場が有り、五町場とか鉄砲場と呼ばれていました。これは、吉井川を越えた南岸の大谷村石山の着弾点の距離が約5町(約540m)あったからと言われています。松平藩になってから、大砲場を更に西に寄った土手から、12町砲術修行の射撃がありました。町には、鉄砲製造の技術者すなわち鉄砲師がいて、修理から製造まで行っていました。鉄砲金具師や鉄砲台師もいました。松平藩時に召し抱えられた鉄砲師が作った火縄銃や馬上筒(短銃)の逸品が現存しています。また紙漉屋があり、備中の漉工を雇い、松平家の檀紙奉書を生産していました。
津山総鎮守徳守神社のある宮脇町には、津山城下の西の入口として往来取締りを行う西大番所が今の翁橋東詰にありました。
築城当初は、南側は神社の境内でしたが、現在の街並みになったのは1700年頃と思われます。明治まで徳守神社門前の商人町として、また城下の西の護りの要としての役割を果たしてきました。
なお、当町内のだんじり「廉珠台」は、津山最古の物で今も徳守神社秋祭りには曳き出されています。
西寺町西
城下町の建設期には武士や町人など、多種多様な宗派の人が集まり住むことによって城下町が出来ました。そうした人々の必要に応じて、津山藩は城下町の東西の端に各宗派の寺院を集めて寺町を作りました。東の寺町が丘陵上に配置されたのに対して、西寺町は町人町から続く主要な街道に沿う形で寺町が形成されました。高い土塀と豪壮な建築物が建ち並ぶ寺町は、城下町の防衛施設と位置づけられました。(『津山市史』第3巻より)
寺町には立派な救護施設津山広済寮(定員80名)があります。平成23年(2011)には耐震建物に建て替えられました。
西寺町東
戦後配給物資を配分するために、町内会が分割されました。
小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋から東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来しています。
町内の中心には白加美守護神、田中北部に農業の守護神の2社があります。
安岡町は津山城下の西の端となる町で、町名はこの地域から北に広がる丘陵地から名付けられたようです。町並みは寛永年間(1640頃)には成立していましたが、津山城下から外れている場所であるために町民は租税に苦しんでおりました。その後、南海(紀州)から移り住んでいた渡邊藤左衛門義信の命をかけた直訴により、茅町と安岡町は城下に編入される事になりました。その義挙を徳とし祠を建てて神と崇めたのが、義信神社として現在でも安岡町の守り神として町内に祀られています。
寛永14年(1637)城西小田中村のうち本源寺から聖徳寺までの間に開いた侍の屋敷町で、大塚兵庫ら15人が住んだのが始めであるといわれています。元禄元年(1688)には戸数30戸ありましたが享保年間(1716頃)に屋敷を撤去して農地としました。現在150戸ほどありますが、城西通りの開通で風景も変わり住宅地帯の表情をみせています。西新座の一角に津山市立西小学校や城西保育園があります。大正15年(1926)ごろ建設され津山西尋常小学校として授業がおこなわれ、現在250人ほどで少子化の現状です。学校の裏側に昭和50年ごろ、スーパーニシナ・サンバレー店が開店され、食料品や生活雑貨など販売の店舗として繁盛していましたが、近くに近代的な大型スーパーなどの進出によって、しだいに客足がすくなくなり、平成13年の年末に閉店しました。
新屋敷町内は旧出雲街道沿いの安岡町北方の竹林を開いて足軽屋敷が設けられたのが始まりと言われています。その後、藩の縮小により廃止されました。東に西新座西、西に西松原、北に神田、西陵団地と隣接しており城西通りが町内の中心を東西に通り、飲食店・衣料品店が並び昔の田畑は無くなりました。
町内の寺社は聖徳寺と荒神社があり、聖徳寺では7月30日に「われい祭り」が盛大におこなわれています。荒神社は夏・秋祭りの他に「いのこ」の行事が子ども達に受け継がれています。「薮の鼻」には「愛染寺奥の院」の大師堂があり、毎月20日には総代を始め檀家の皆様によりお参りがなされています。