![医療の発展に貢献した久原家(二階町)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/04/kuhara8-thumb-120x120-90965.jpg)
医療の発展に貢献した久原家(二階町)
![倭文(しとり)神社(油木北)旧久米町](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2014/11/hitori2-thumb-120x120-91001.jpg)
倭文(しとり)神社(油木北)旧久米町
![皆戦場〔合戦場〕(草加部)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/03/kaisen1-thumb-120x120-91010.jpg)
皆戦場〔合戦場〕(草加部)
![能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/01/kitune5-thumb-120x120-91341.jpg)
能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)
![アルネが出来る前の吹屋町界隈の写真](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2017/03/800px3177-thumb-120x120-162131.jpg)
江戸時代、森忠政公の時代の津山城下の一町で武家地でした。
当時は鉄砲組の足軽を置いたことから西鉄砲町といわれました。後に東鉄砲町は中之町に編入されたため、鉄砲町となり現在に至っています。家臣が砲術修行の射撃をするのは、鉄砲町に南土手の東側で、藺田川と吉井川の合流付近に大砲場が有り、五町場とか鉄砲場と呼ばれていました。これは、吉井川を越えた南岸の大谷村石山の着弾点の距離が約5町(約540m)あったからと言われています。松平藩になってから、大砲場を更に西に寄った土手から、12町砲術修行の射撃がありました。町には、鉄砲製造の技術者すなわち鉄砲師がいて、修理から製造まで行っていました。鉄砲金具師や鉄砲台師もいました。松平藩時に召し抱えられた鉄砲師が作った火縄銃や馬上筒(短銃)の逸品が現存しています。また紙漉屋があり、備中の漉工を雇い、松平家の檀紙奉書を生産していました。
町内には、七五三稲荷(三番組)、繁守稲荷(五番組)、弘法大師堂(六番組)があり、それぞれの祭日に祭事をおこなっています。
現在は主立った産業はありませんが、平穏な住宅街として、比較的に便利な場所であります。
(文:『作州城西史』より)(2019年1月14日撮影)