長松山 法林寺(大字宮部上)旧久米町
長松山 法林寺(大字宮部上)は、本源寺の過去帳から見ると元和元年(1615)二月五日から始まっています。
作陽誌に長松山法林寺臨済 当寺者在リ 同村ニ 妙心再住正伝ノ開基也、 本尊 釈迦 脇士 普賢 文珠、鎮守 荒神、本寺 法源山宗永寺、境内 方五十間許と記されている。
此の寺は寛文元(1661)年六月賢堂祖元和尚の開基で、開山は同年十月十六日、正伝元正老和尚によるものである。
長松山 法林寺(大字宮部上)は、本源寺の過去帳から見ると元和元年(1615)二月五日から始まっています。
作陽誌に長松山法林寺臨済 当寺者在リ 同村ニ 妙心再住正伝ノ開基也、 本尊 釈迦 脇士 普賢 文珠、鎮守 荒神、本寺 法源山宗永寺、境内 方五十間許と記されている。
此の寺は寛文元(1661)年六月賢堂祖元和尚の開基で、開山は同年十月十六日、正伝元正老和尚によるものである。
![]()
2015年7月1日~7月7日(午前10時~午後4時まで)小田中の本源寺において特別拝観がありました。
また、7月7日は午前10時より本源寺本堂で津山藩主 森忠政公 毎歳忌法要があり、初公開として森忠政公の守り本尊、千手観音像(高さ五寸五分)を、法要の間のみ特別に御開帳されました。(2013年380年忌法要の様子)
![]()
昭和30年代のラジオ体操の写真を岩本敏さんにお借りしました。(ここは旧出雲街道です。)
【夏休みには毎朝ラジオ体操】60年前の思い出〜2〜
昭和30年、1955年の夏。私は小学校2年生。あの頃の小学生なら誰でもラジオ体操の経験があると思います。今の子どもたちは、ラジオ体操ができるのでしょうか? 私は今でもラジオ体操、覚えています。第一と第二、両方できます。
夏休みの早朝は、町内の子どもに親も加わって、ラジオの放送に合わせて皆で体操をしたものです。写真は、私の住んでいた津山市小田中の町内ラジオ体操風景です。懐かしい顔が並んでいます。(文:岩本敏さん)
小田中田中の荒神様 (2015年5月5日・9日、3月31日取材) 子どものお祭り
小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』(わみょうしょう)には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋(す じかいばし)東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来して います。
町内の中心には白加美守護神があり、東面には農耕の守護神として荒神社が祀られています。
2015年7月19日(日)≪前回の取材:2009年・2009年秋紅葉・2010年元旦・2010年・2011年夏・2011年秋まつり・2012年春・2014年桜・2014年夏・2015年冬・ ≫
小田中は湖水面が広がっていたと考えられる。材料として、苫南郡田中郷小田中村(現、津山市小田中)に所在の「白神社」(通称、しらかみさま)が ある。白神社は、天照天神、正哉吾勝尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜草葺不合尊の地神五代を祭神として祀ると伝へられるが、この白神社の末社である「月輪 神社」の存在は無視することの出来ない重要なものである。
![]()
小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』(わみょうしょう)には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋(すじかいばし)東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来しています。
小田中・田中北部に荒神様があります。農耕の守護神として祀られています。今では地元の方7人程で年に2回ほど集まってお参りしておられるとか。(2015年5月9日取材)
作州民芸館にて 和傘デザイン展があり、和傘デザインコンテストの受賞作品や、ミニ和傘が展示してありました。津山市小田中出身の和傘職人小林旅人さんが、実施したデザインコンテストの作品を展示しておられるそうです。沢山の和傘の作品を懐かしく拝見しました。(2015年6月21日取材)
毎年7月30日午後7時頃より堂内で大般若転読法要、境内にて紫灯大護摩の祈願法要が行われる和霊大明神は厄除けの神として、また願い事は必ずかなえてくれると言う津山地方で名高い神様で、祭神は伊予の宇和島藩の家老で仙台藩主伊達正宗の子秀宗に仕えた人で、山家清兵衛公頼公(やんべせいべいきみよりこう)である。
摩尼山高福寺は、京都市花園の妙心寺を本山とし、大日如来を本尊とする臨済宗寺院です。
初代津山城主忠政が、美作18万6500石の領主として、慶長八年(1603)に入封し、慶長九年(1604)に、津山神戸にあった安国寺を津山小田中の地に移して、名称を本源寺に改め、天倫玄節大禅師を開山として森家の菩提寺と定めた。
聖徳寺正門を入ってすぐ左側(新屋敷)
後年俳聖芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖宗因は承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で中秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている
月見れば こよひなりけり 旅の空 西山宗因 書は彫無季氏(2015年5月9日)