牛頭天王(高倉)
牛頭天王
東作誌に牛頭天皇は「西の尾に在 西分の氏神 本社 三尺二寸四方巽向 拝殿二間二間半 鳥居木 社地五段許 祭日 九月十八日」と記されている。
祭神は須佐之男命(すさのうのみこと)で疫病災難よけ、授福の守護神として祀り信仰されている。地元では天神さんと呼んでいる。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材
牛頭天王
東作誌に牛頭天皇は「西の尾に在 西分の氏神 本社 三尺二寸四方巽向 拝殿二間二間半 鳥居木 社地五段許 祭日 九月十八日」と記されている。
祭神は須佐之男命(すさのうのみこと)で疫病災難よけ、授福の守護神として祀り信仰されている。地元では天神さんと呼んでいる。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材
じ・ば・こ(じいちゃん・ばあちゃん・子どもたち)みんなの文化祭
日時:2013年2月24日(日)10時~午後3時、会場:作州民芸館
子どもたちに、文化や遊び、手を使った作業を伝えることと、子どもたちと地域の方の交流を目的に開催されました。
実行委員会には、西小学校、西幼稚園、城西保育園、美作大学、NPO支援センター、津山市、津山市社会福祉協議会、青壮年会や子供会んお方も加わり、どんな内容にしていこうか検討してきました。
この日行われる、いろいろな体験に参加した子どもたちには、この日だけ使える特別なお金「テラ」(寺)」がご褒美。(文:城西まちづくりレターより抜粋)
和加美神社(わかみじんじゃ)
水嶋隆之宅の東側のお宮が和加美神社で、地元では「ワカミヤ様」と呼んでいる。延享4年(1747)、高倉に米井庄助という人が生まれ、幼少より利発で学問や俳諧等に優れ、村内はもちろん近隣地まで有名になり、学問を教えていたが47歳で病没した。明治14年、神としての格式を賜り和加美神社が建立された。(2013.2.20)(文:高倉の歴史と文化財より)
地神様
高倉神社の前に自然石に「地神」と深く刻み込んだ地神様がある。地神様は土の神で農民を守り稲の生長を助け、豊かな実りをもたらす農業の神として祀られている。地神様の祭りは春、秋の彼岸の中日に近い戊の日にあたる社日に行われ、この日は農作業を休むことになっていた。建立年代は刻まれてないが、天保から明治末年にかけて各地で建立されている。現在は高倉神社の祭典にあわせて祀っている。
2012.12.16取材(文:高倉の歴史と文化財より)
田熊の水田地帯の中ほどに、祇園様が祀られている。構造改善事業で区画整理されている広々とした田んぼの中に、一画だけ2~3の樹木に鳥居と小祠の祭祀場所があるため、遠くからでもすぐ見つけられる。
祇園様といえば、誰しも京都の祇園祭を連想するように、祇園祭を行う八坂神社から、この神様=牛頭天王を勧請したものであることは明らかである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012年8月お涼み
福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材
安藤幸夫(刀銘広清)さんは、昭和22年2月4日津山市福井生まれ、東京でコック(札幌オリンピックにも関わる)をしながら、昭和40年鎌倉市の研師西村勝政に入門し砥の勉強をしていたそうです。子どもの頃から刀が好きだったので砥をやったが、終始一貫して出来るということで、昭和47年に刀匠(刀匠 小林康宏氏に師事。8年間の修業を経て文化庁から刀匠の認可を受けた。56年郷里の津山に帰り、本格的に作刀を始めたのだそうです。同57年には新作名刀展に初入選する。以後、連続して入選する。
<以下の文章は津山市広報から抜粋>
日本刀は月に2本しか作ることが許されていませんが、その少ない機会の中で、様々な鉄を使って、研究を重ねています。特に江戸時代以前の鉄砲や釘などの古鉄を探し、鋼に仕立て直し材料にしています。大変手間が掛かり、ほかの刀匠は嫌がりますが、この手間こそが現代に名刀を蘇らせるのだと思っています。
技術というものは、いったん失われてしまうと、蘇らせるのに百年は掛かるものです。ほんの一瞬のことで次の世代に伝統が伝わらなくなってしまう。そんな失われた幻の古刀を自分の手で再現したい。
2013年2月3日(日)取材
福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」
三宝荒神社(2012.12.16取材) ※お祭りなど詳しくはこちらをご覧下さい。
祭神 須佐之男大神 祖先の御霊神 土地の守護神
例祭 11月3日
由緒沿革
地区の吉方乾の山にある当社は、平安時代初期の創建と思われ、前記の三神が三位一体三面六臂の御神像にて鎮座されている。伊邪那岐大神の御子須佐之男大神は、五穀豊穣と諸難疫病退散の神であり、この三神による三宝荒神の大神は家内平穏・親族和睦・家運長久・子孫繁栄を司り、子供の守り神としても厚く信仰されている。お参りの時には御祈念と一緒に次のようにお唱え下さい
祓え給え 清め給え 守り給え 幸え給え 宮司 水島康司(案内板より)
2013年2月3日(日)午後6時~2回目の豆まきです。
会場の徳守神社には大勢の親子さん、おばぁ~ちゃん、おじぃ~ちゃんが福を求めてお出でになっていましたよ。午後1時から福引きと矢守吉兆授与、午後3時30分から豆まきとみかん投げ、午後6時30分から鬼順次参入、午後6時40分から豆まきとみかん投げがありました。