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取材記事内をタグ「津山の歴史と文化」で検索した結果,69件の記事が見つかりました。

津山城の一番古い石垣

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 2019年3月5日の津山城(鶴山公園)の石垣です。上記の写真の場所は本丸の東面の石垣です。
本丸にあるこちらの石垣は一番古い組み方です。この階段は武者走りの石段(全国でもまれ)で、丹後山からの攻撃を受けないように、わざわざ築かれた石垣ですが、現在は傷みが激しいです。津山城は、森忠政が慶長9年(1604)に築城にかかり、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月を要しました。

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仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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賀茂競馬(特別扱いの倭文庄馬)

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 倭文歴史と文化を語る会"ふるさとの歴史再発見の旅"(平成30年5月5日)日帰りで京都市上賀茂神社競馬神事と三十三間堂の旅に参加して来ました。この旅は倭文地区の歴史を子ども達に伝えたいと企画されたのだそうです。子ども達も実際に自分たちの目で競馬を見て何かを感じてくれたことでしょう。


競馬(くらべうま)
 馬は神聖な動物とされ、五穀豊穣・天下安隠を祈って、神馬(しんめ)として奉納された。上賀茂神社の競馬、下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)など、馬が登場する神事は多い。上賀茂神社の競馬は、1093年(寛治7)に、宮中の菖蒲の根合わせで勝った女房たちが、そのお礼に奉納したのが起りとされる。病気平癒祈願に、十列(とおつら)走馬の奉納という盛大なものもあった。(文:倭文地区歴史と文化を語る会)

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平成28年度 津山郷土博物館特別展「江戸での火消行列図」

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平成28年度特別展「行列を組む武士たちー津山藩松平家の行列図よりー」H28.10.8~11.20
大名火消と松平家
はじめに
 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、江戸の町では火災が多く発生し、時には江戸城を含む広範囲を焼失する大火になることもありました。そのため、当初は消防組織のなかった江戸の町に、やがて階層ごとに編成された消防組織が置かれるようになります。町人は町火消、旗本は定火消、大名は大名火消という具合ですが、大名火消は所々火消と方角火消、各自火消に区別できます。前の二つは決められた場所の消火に当たるもので、後の一つは藩邸近隣の消火に出動するものを指します。ここでは、主に前の二つについて、松平家の事例を紹介します。

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新しく整備された京橋門

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 京橋門は、大手筋に位置する門です。堀にかけられた木橋を渡ると正面には石垣で囲まれた空間があり、右手に折れると門があります。これを桝形虎口といい、厳重な造りとしていました。現在、門や石垣は一部現存しているのみですが、絵図から、門は櫓門であったことがわかります。
 現存するのは桝形虎口西側の石垣とそれに続く土塁の一部ですが、土塁は明治の廃城以降も累々とめぐっていたことが知られ、地元の人々からは、「万里の長城」と呼ばれ親しまれていました。
 周辺は明治36年(1903)、津山高等女学校の敷地となり、この石垣上には昭和7年(1932)完成の而立館(同窓会館)が建っていました。(文:現地案内版より)(2018年4月29日撮影)

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鶴山館(鶴山公園内)

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 これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
 しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。

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阿黒谷(上之町)

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上之町(五丁目)と阿黒谷
 森藩時代から四丁目に続いて千光寺・蓮光寺などが、丹後山南麓に続く。
千光寺ゆかりの養護施設二葉園の前の道を山に向かえば、阿黒谷にかかり、丹後山への登山道となる。阿黒谷は、戦国時代、このあたりにいた土豪阿黒氏がいたところと伝えられている。武家町もこのあたりになると閑散としてくる。千光寺のしだれ桜は見事である。(文:城東観光 看板より)(2017年10月7日撮影)

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百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

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大阪城の号砲は津山藩の百済清次郎らが製造

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号砲
 この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
 1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
 明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12年~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。(文:大阪城現地説明板より)(2017年8月11日撮影)

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津山・美作の国いにしえギャラリー by 江見写真館(第3回)

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二宮の松並木です。津山景観図屏風左隻 春の二宮の在りし日の松並木の様子が描かれています。また、説明もあります。

 1873年創業の江見写真館には三代目江見正(1890-1976)撮影の地域の歴史を記録するガラス乾板が多数保存されています。(写真、文:江見写真館提供)※一切の写真の無断転載を禁じます。

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