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取材記事内をタグ「津山人」で検索した結果,60件の記事が見つかりました。

美作東部―大庄屋巡り「甲田猪右衛門僖行」(近長村)

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 近長村は勝北郡に属し、北西を加茂川が流れる。慶長九年の検地帳では近永村とあり、検地高は三百二十五石余、元禄十年の美作国郡村高辻帳では三百六十五石余とある。現在の津山市近長である。森藩廃絶後、元禄十一年には幕府領となり、延享四年(1747)以後常陸国土浦藩領となる。ここには高札場・米蔵・牢屋が各一ヵ所あったと云う(東作誌)。土浦藩は美作の内吉野郡・勝北郡一万九千八十石余を領し、初めは吉野郡下町村に代官所があったが、寛政四年から当村にこれを移している。

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美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)

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保田市郎右衛門(野村)
 野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。  

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『町中が仕事場だった』出版記念 白石齊さんを囲む会

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 白石齊さんが津山朝日新聞に「城下の仕事場」をテーマにしたエッセイを連載されていましたところ、多くの方々から「是非、まとめて出版してほしい」との反響があり、それを受けて、今般、津山朝日新聞社のご協力をいただき『町中が仕事場だった』を上梓されました。そこで、白石さんを囲んで「津山を元気にしよう」をテーマにして津山弁で気軽に語り合う会を開催することになりました。(文:津山おくにじまん研究会 藤木靖史さん)(撮影:平成30年6月9日、津山鶴山ホテル)

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【津山人】彫書家 彫無季

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 彫無季(本名河野省三・1904~1992)は明治37年岡山県苫田郡津山町三丁目(現津山市本町三丁目)に生まれました。大正9年(1920)岡山県立津山中学校を中途退学し、2年余り中国上海に遊学しました。同13年(1924)帰国ののち上京し、翌年東京蔵前工業専門学校に入学しましたが、2年後に中退しました。
 その後、叔父の経営する工場の仕事を手伝いながら、独学で中国の拓本などを学習しつつ、自らの書の工芸を模索しつづけました。そして、ついに書と彫刻が一体となった彫書という新しい芸術を創造しました。
 昭和29年(1954)初の「彫書」個展を開催、以後個展の開催や各種揮毫、著書の出版など縦横無尽に活躍しました。また、昭和41年(1966)には淳和会を発足させ、後進の指導にも努めました。平成4年東京で没。享年87(文:平成18年3月18日津山市教育委員会「彫無季の芸術」より)(写真:津山郷土博物館特別展図録『彫無季の芸術』より転載)

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【津山人】大谷是空(藤治郎)

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 大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
 明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。 

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【津山人】士魂商才の実業家 磯野計(1858-1897)

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 2018年3月3日、津山市川崎にある津山東公民館で「津山市公民館講座 演題:士魂商才の実業家 磯野計ー世界のベスト(最良品)を日本へー」と題して、元津山洋学資料館館長の下山純正さんが磯野計の生涯を色々なエピソードを加えてお話してくださいました。

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「B'z 津山を盛り上げる会」で春のおもてなし。

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 ROUTE178 B'z津山を盛り上げる会(二番街・津山銀天街・元魚町商店街)の皆さんが、津山さくらまつりの一環として企画されておられる楽しそうなイベントを取材させていただきました。なんと、デグチビル側面には看板が設置され、また、「ROUTE178 B'z津山を盛り上げる会(イナバ化粧品店協賛)」の常夜燈が12基設置されました。会長の出口剛三さんは「昨年の津山公演も、その後の、お誕生日おめでとう会や多くのファンの人たちと触れ合えとても感動した。もっと早くにしてあげればよかった!」と反省しきり。夏には、B'z結成30周年記念を企画中だとか。とっても楽しみですね~。(昔の元魚町商店街

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【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)

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 駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)

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【津山人】故郷を愛した人情作家 棟田 博(むねたひろし)

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棟田 博(むねたひろし) ー故郷を愛した人情作家ー
 「降るかとみればやみ、やむかと思えば降り、昨夜は危ぶまれたが、今朝は雲も見せぬ快晴である」と書き出しているのが「分隊長の手記」である。これが棟田博のデビューになった。彼が「赤紙」の戦時召集をうけたのは昭和12年、岡山の歩兵十聠隊に入ると第二次補充部隊要員として、北支の赤柴部隊に加わることになっていた。そして同13年5月の徐州会戦のとき、台児荘の戦闘で負傷、戦列を離れた。短い戦場体験であった。棟田は正規の徴兵検査に合格、軍隊生活をおくっていたので伍長になっていた。召集で分隊長であったのはそのためだ。「分隊長の手記」は14年3月号の「大衆文芸」から連載されたが、11月には単行本になって、翌年1月までの僅かな期間に30版を重ねた。すごい人気のデビューになったが、それには次のエピソードがあった。

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【津山人】浅本鶴山 -放浪の陶工-

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 放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
 明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。

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