城山公園(茶臼山城址展望台)赤磐市
吉井川の清流のほとり、空を衝くように茶臼山がそびえ立つ。
備前軍記によると戦国時代に山城があったと記載され、県の史跡になっています。
四季を通じて楽しめる山頂に、城型展望台とともに高瀬舟舟宿を移築し、大型竪穴遺構を推定復元して人々に親しまれる公園にしました。
茶臼山城址展望台
建物は、茶臼山が山城跡であったことから「城」の形態を採ったもので、現存する同時代の山城の遺構に見られるいくつかの要素を基本に構築したものである。構造は、鉄骨一部鉄筋コンクリート造三階建、延床面積181.32m、高さ14.2m、最上階展望室は、街並みから約135mあり、これは超高層ビルのおよそ35階の高さに相当する。ここからは、吉井川、吉野川流域の景色はもとより、はるか北方の中国山脈も眺望することができる。
茶臼山城址展望台 門
茶臼山城跡の階段
茶臼山城跡 復元された休憩所と大型堅穴遺構
茶臼山城
▲休憩所(移築民家) ▲大型堅穴遺構
この民家は、江戸末期に吉井川沿いの赤磐市河原屋に建てられた商家で、昭和初期まで吉井川
を往来していた高瀬舟の舟宿であった。
大型堅穴遺構
復元したこの遺構は、長径約9m、短径約7mの楕円形で、深さは4.5mである。1.5mさがった所におどり場があり、底には長方形(2.6m×4.8m)の床面があり、この中からは炭、焼土、灰とともに、備前焼(大甕、摺鉢、徳利、壺)土師器はじき(杯、皿)鉄製品(刀子、鉄鏃、釘等)陶磁器(青磁、白磁、天目、染付等)古銭(永楽通宝等)など室町時代後期の遺物が出土した。復元は、堅穴内にある2本の大きな柱を棟持柱とし、遺構周囲に検出された柱を叉首として組み立てたものと推定して復元したものである。
この堅穴は、人間が住むのに充分な空間を持っているため、貯蔵も兼ねた居住施設であったと考えられる。
戦国時代の城郭でこのような遺構の発見例は珍しく、極めて重要な遺構である。(出土した遺物は、赤磐市吉井支所横の郷土資料館に展示しています)
茶臼山城址展望台外観 内部
茶臼山城址展望台内部1階 この武将は誰でしょう?
周匝茶臼山城跡
周匝茶臼山城は赤磐市周匝の標高約170mの茶臼山尾根上にあった約500年前の山城です。
城主は『備前軍記』などから、笹部(佐々部)勘斎(勘次郎)と考えられており、天文2年(1533)に居城し、天正7年(1579)宇喜多直家によって滅ぼされるまで、46年間存在していたとされています。
昭和60年(1985)、周匝茶臼山城の発掘調査を行いました。この調査によって、本丸は礎石をもつ瓦葺き建物、掘立柱建物、大形堅穴遺構をもつ中世的な城郭施設であったことがわかりました。
また、土器、土製品、石製品、瓦、鉄製品、銅製品など多くの生活用具や武具が出土しました。
昭和61年には、城型展望台としての近世風の建物の建立、大形堅穴遺構の復元などを行い城山公園として整備しました。(赤磐市教育委員会)
陣屋西門 鬼瓦・軒丸瓦ほか
茶臼山城址展望台内 武将
茶臼山城址展望台から市内を眺望 中国山脈を眺望図
茶臼山城址展望台より見る眺望
(文:赤磐市発行「城山公園」パンフレットより)(2021年2月11日撮影)
池田家西墓所
初代池田長政・八代池田長紀・九代池田長貞
上記、三城主の墓は当山山麓八幡宮の西南にあり、それ以後は岡山東山墓地にあり)
池田家西墓所
池田家西墓所
池田家西墓所
池田家西墓所