神代のアジサイの花
2019年7月1日の梅の里近くのアジサイロードです。今年も美しいアジサイの花と出会ってきました。ここのアジサイの花の色は種類も多くて鮮やかな色のアジサイがいっぱいで、毎年楽しみにしているところです。お世話される方が愛情をもってお世話をされている様子がわかるような気がします。今年も新しく小さなアジサイの花が植えられスクスク育っていました。
2019年7月1日の梅の里近くのアジサイロードです。今年も美しいアジサイの花と出会ってきました。ここのアジサイの花の色は種類も多くて鮮やかな色のアジサイがいっぱいで、毎年楽しみにしているところです。お世話される方が愛情をもってお世話をされている様子がわかるような気がします。今年も新しく小さなアジサイの花が植えられスクスク育っていました。
稲荷宮石灯籠・豊川稲荷宮・亀山城跡(坪井)
石灯籠は2基あり、左側は文政9年(1826)、右側は天保8年(1837)に寄進され、何れも坪井宿の中央を流れる水路のほとりにあったものである。
豊川稲荷は挙母藩陣屋に祀られていたもので廃藩置県後、亀山城跡に移された。
七森神社への途中約500m北にある七森宮石灯籠は嘉永5年(1852)に寄進。「是ヨリ七森宮へ九丁」と刻んである。これは坪井宿から約900mということであり、これも水路のほとりにあったものである。
現在の久米町のほぼ1/5の面積を占める、旧久米北条郡十二ヵ村は、慶長八年(1603)以降、森氏(津山藩)の領内であった。
しかしながら、元禄十年(1697)八月に四代藩主森長成が後嗣なく死去したことにより、森氏が断絶し、美作国全土は一時幕府領となった。このことにより上記十二ヵ村を含む美作国勝南・久米南条・久米北条・真島の四郡については、翌 元禄十一年九月、幕府の代官所が坪井下村におかれ、代官として西与一左衛門が着任、領内を統治した。
その後、元禄十五年(1702)九月二十三日、上記の十二ヵ村は上野安中城主内藤氏の領するところとなった。内藤氏は、それまで陸奥国岩城城主であったが、内藤政森(1683~1738)の代に上野国碓氷と久米北条の二郡を所領とし、上野安中城に居所を置いた。(安中藩)その後内藤政苗(延享三年(1746)襲封)の代に、上野国分の所領を三河国加茂・遠江国周知・榛原の三郡に移され、三河国加茂郡拳母(現 愛知県豊田市)に築城したが(拳母藩)、久米北条郡については引き続き領有が続き、明治四年(1871)の廃藩置県に至るのである。
元禄十一年に幕府領となった際、坪井下村に置かれた代官所は、その後幕府から内藤藩に譲渡され、陣屋として明治まで継承したが、坪井宿内のほぼ中心であるこの場所にあったと伝えられている。内藤藩時代の陣屋は、五百七十坪の敷地を有し、この中に三百三十坪程の面積の建物があったという。そして、拳母城から郡奉行以下八名が出張し(一年毎に半数が交代)、これらの人数と領内から任用した大庄屋二名を選び、領邑を統治したということである。
一里塚は、街道の両側に一里(三十六町=約4キロメートル)毎にそのしるしとして築いた塚で、五間(約9.1メートル)四方に土を盛り、中央に堠樹を植えたものである。慶長9年(1604)江戸幕府が官道(五街道)の制を定めると同時に整備されたもので、旅人に行程を知らせ、旅行の趣を増すとともに休む者には樹陰をあたえるなどの利益をもつものである。
本町を通っている出雲往来も上記の政令により大道に定められ、五街道に準ずるものとなった。津山藩主 森忠政は幕命を受け、美作地方の主要な往来に一里塚を設置する事業に着手したのをはじめ、街道経路の変更、宿場や道路の整備など、街道の整備はより一層進められた。
坪井宿跡は、過去に2度の大火を経験したことが知られている。
このうち明治14年の大火は、4月25日に出火し、坪井東町で36世帯80余棟が消失したとの記録がある。また、明治40年3月12日にも同様の火災があったことが伝えられている。
さて、ここにある小祠は通称「下あたご様」と呼ばれている。町の西端には他に一か所同様の祠があり、こちらの通称は「上あたご様」と呼ばれている。
この二つの祠には祇園社・愛宕社が祀られている。祇園社は京都八坂神社の午頭(ごず)信仰に始まるもので、疫病や作物の病害虫を除き、愛宕社は同じく京都西北に鎮座する愛宕神社の信仰に端を発し、火災や病気除けの神様として現在でも広く信仰されている。
坪井の「あたご様」は、上記の大火ののち現在の場所に建てられ、現在でも地域住民によって大切に護られている。祠からは、無病息災を願い、かつ祈った当時の人々の思いが伝わるかのようである。(案内板より)
2019年5月23日津山市領家にある甲本通晴さん宅のバラ園をお尋ねしてきました。
毎年、咲くのを楽しみにしておられる方が大勢いらっしゃるバラ園です。丹精込めたバラは約300種と圧倒的な多さで、とても大輪で見ごたえのあるバラばかりです。また、ここのバラは四季咲きで、10月頃まで楽しめるとのことです。(2018年の様子)
2019年4月28日、少し曇り空の津山市です。ここ津山市領家にある津山圏域クリーンセンター・リサイクルプラザの多目的広場には足湯があり、ゆっくり楽しめるとのうわさを聞きやってきました。
「クリーンセンターが多くの人に愛され親しまれる施設となるよう、圏域の皆さまからのアイデアをいただきながら、子供から高齢者まで楽しむことができる施設として整備したもの。また、環境学習を通じて、持続可能な社会の構築に向けた"人"の育成を目指しています。」とのことです。
(前回の取材はこちら)
2019年3月5日に津山市神代梅の里公園にある「梅まつり」へ行って来ました。
梅の花は満開には少し早目だったようですが、満開に近い梅の木もあり楽しめました。車を降りるとぷ~んと梅の花の香りが漂ってきます。お天気も良くて沢山の方々が梅の花を見にお出でになっていました。(2013年の記事)
河原儀山 眞光寺 大字福田下村
作陽誌と宝暦5年の由緒書上帳によると承和元(834)年3月15日弘法大師の関闢で、旦那は左衛門殿大江行経である。大師の御弟子 南池院僧都源仁法印が担当しての草創であり、当然真言宗の寺院であった。其の98年程後、承平2(932)年、比叡山の民部大僧正が流しものになったか、それとも自分から身をかくす必要があっのか当国に下着した。そして福田下村の地で霊異を感じ、加賀国の白山権現を勧請して天台宗の寺院として念仏思念三昧に入ること百日、たちまち9万8千の軍神が机の4面に現れた。ということで、最初の98年程の間、真言宗であったものが承平2(932)年以降天台宗に変ったものである。
2018年8月22日・23日と久米の慈恩寺さんをお訪ねしてきました。友人から、先の雨で裏山が崩れ、竜王堂が傾いているとの連絡を受けて様子を伺って来ました。姿形はあったのでほっとしました。また、再建されるそうです。慈恩寺さんにはもうひとつ、子ども達に人気の白いカメさん(ケヅメリクガメ)が二匹います。名前は「マックスくん」と「モモジローくん」だそうです。住職にお聞きしたら、2000年の秋に買って来た時は僅か700gくらいで2歳(推定)だったそうです。