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再企画 つながる出雲街道(久世~勝山宿2)

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 再企画第1弾第3区 つながる出雲街道(久世~勝山宿1)からの続きです。
「夢街道・ルネサンス」認定 真庭の歴史遺産の古道
 現在の兵庫県にあたる播磨国の姫路から、島根県にあたる出雲国の松江までを結ぶ約215キロの古道「出雲街道」を歩くイベントが、2024年10月29日(日)に開かれ、県内外から約50人が参加。今回主催の出雲街道勝山宿の会メンバーの皆様に、久世から勝山まで案内して頂きました。


「街道歩こう会」の活動履歴
平成24~28年:「出雲街道(1)を歩こう会」7区画(延57.0km)
       (津山市~真庭市~新庄村~鳥取県・日野町)
平成26~令和元年:「大山みちを歩こう会」6区画(延55.5km)
       (真庭市・上山~真庭市・延助)
令和2年:国土交通省より認定された「夢街道ルネサンス」の「「つながる」をキーワードに、同2年より市外に活動の場を求める。
令和2~4年:つながる「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」6区画(延45.1km)
(美作市・勝央町・津山市)
各会団体の協力を得、県内の「出雲街道」及び市内の「大山みち」は統べて踏破(延19回)することが出来ました。(文:資料より転載)

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2

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 津山宿(城下町)
 古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
 街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
 慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
 元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
 元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき

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つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(2)

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 つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース(1)からの続きです。今回のコースは比較的になだらかな所が多かったため歩くのが楽でした。また、事前の調査、古道の整備など「勝間田宿の会」、「土居宿を後世にのこす会」、「勝山宿の会」の方々のご努力に感謝しながら歩いてきました。


 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第4弾として、万能乢より江見までを、「勝間田宿の会」を主催者にして、「土居宿を後世にのこす会」と「勝山宿の会」とで共催して開催いたします。また、万能乢コースと別に、古代より開けた「杉坂峠コース」がありますが、このコースは又の機会に譲り、参勤交代が始まった江戸中期(慶長9年頃)より、土居宿が設置され「万能乢コース」が開発されたので、今回は同コースを歩きます。

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明治の元標(鏡野町)

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明治の元標
 里程標(りていひょう)は、地上高さ85㎝、幅18㎝、四方上を山形にした凝灰岩の方柱である。
百谷地内、香々美北郵便局のすぐ北の橋の北詰にある。刻字は、北面は、「明治五年九月検査」東面は「距津山元標四里、南面西北條郡百谷村、字横部」とある。
 当時の北条県(美作国を範囲としていた)の県庁は津山にあり、北条県の道路元標は、宮川大橋西詰に設置されていた。元標より一里が小原、二里が田辺、三里が藤谷、四里が百谷で、それぞれに同規格の里程標が現存している。
 この里程標は、津山石山産の凝灰岩である。※町指定史跡「昭和47年4月1日付」管理者 鏡野町(文:『香北ふるさとの伝承』より)(2021年10月20日撮影)

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出雲街道を歩こう会「坪井宿」

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 2020年11月8日特別企画(第2弾)「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」に参加してきました。久米ふれあい学習館をバスで出発、岩屋城麓に着き簡単な説明を受け徒歩出発しました。約4時間ほどかけて無事久米ふれあい学習館に戻ってきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 今回は「つながる出雲街道(東部Ⅱ)」を歩こう会より、特別企画 第2弾として、大井西の会の応援を得て、共催で開催されました。津山市・中北上~同・宮尾間7.8km(実質9.0km)

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美作の大庄屋めぐり「土居家」(東田辺)

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土居家 土居藤七 西北条郡田辺村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 田辺村土居家は、田邑土居家の分家である。田邑村七郎右衛門の三男伊右衛門が、寛文12年(1672)に田邑村に居住したまま田辺触の大庄屋に任命され、田辺触として、6か村石高2489石を所管した。伊右衛門は天和元年(1681)田辺村に移住し、同3年伊右衛門の死去により、河辺村土居家にいた弟の七衛門が名を藤七に改め、2代目となり大庄屋を継いだ。
大庄屋として
 藤七は、元禄11年(1698)、美作国に10万石で入封する松平家に大庄屋及び領民を代表して香山太郎兵衛とともに江戸まで祝賀の挨拶を行っている。藤七は、東一宮中島氏とともに第一次長州戦争に従軍した。『美作の大庄屋、大年寄記』屋号を中屋という。

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工門の津山元標三里(新野東)

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距津山元標三里 新野東(明治5年9月/距津山元標三里/勝北郡新野西村字中野)
 勝北町新野東、新野郵便局東、国道53号線沿いに里程標がみえる。もと同町西下を通る因幡街道に設置されていたものを現在地に移転したものである。
 当時この県の道路元標は津山宮川大橋西詰に設置されていたので、ここまで至る里程を示したもので、移転により多少の相違があるかもしれない。昭和48年 町指定文化財

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伯耆(ほうき)往来「距津山元標五里」

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距津山元標五里(2017年4月30日撮影)
 江戸時代が終わると、明治政府は道路網の改革に着手しました。明治2年(1869)1月には、行政官布告第59号により、全国の関所を廃止しました。
明治6年(1873)12月には、大政官布告第413号により、全国の主要道路の実測調査を実施し、1里ごとに里程標柱を整備するよう通告を出しました。起点は、東京日本橋と京都三条大橋及び県庁所在地としました。布告の中には全国41のルートが記されていますが、その中に「播磨国姫路より美作国津山夫より伯耆国米子に至る」とあり、出雲往来も含まれています。
 この布告により、美作北条県は、明治5年(1872)8月から明治7年(1874)2月までの間に、管内の津山往来、出雲往来、伯耆(ほうき)往来、因幡往来の実測調査を実施しました。そして、宮川大橋西詰を起点として、桧か松製の標柱を設置し、明治7年2月末までには完了したものと思われます。その後順次木製から津山石(擬灰岩)製に取り替えられました。この時の道標が、「津山元標」と呼ばれているものです。

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出雲街道を歩こう会「新庄宿」(レポートその1)

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2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。今回が出雲街道歩きは最終回とのお話で50名の定員を大幅に超える78名の参加がありました。10:30分受付を済ませ、新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後、12:00バスにて乢根(たわね)まで行き、四十曲峠を超えて来ました。レポートその1は四十曲峠~嵐ヶ乢まで。

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明治27年(1894)美作津山市街図

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明治27年(1894)美作津山市街図  津山郷土博物館所蔵


明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人

(2014年7月30日取材)

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