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取材記事内を検索ワード「森忠政」で検索した結果,149件の記事が見つかりました。

2022 徳守神社の夏越祭

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 2022年7月23日に津山市宮脇町にある津山総鎮守「徳守神社」で夏越祭がありました。
 徳守神社のHPによれば、天照皇大神を主祭神とし、創始733年と伝えられ1604年に初代津山藩主森忠政公により、現在の地に新たに造営されました。また、本殿幣殿拝殿は二代目長継公により彫刻や色彩にこだわったものとして再建されたものだそうです。
 茅の輪神事:茅で作られた輪をくぐることによって、半年の罪穢れを祓い無病息災を願う神事です。茅の輪が厄をはらうという言い伝えは、須佐男命(すさのおのみこと)が南海を巡られたとき、宿を貸してくれた 蘇民将来(そみんしょうらい) に感謝し、蘇民に『疫病が流行したら、茅輪を掛けるよう』に言い残し、後に疫病が流行り人々は倒れましたが、蘇民は言葉通りに茅輪を掛けると蘇民の家族だけは疫病にかかる事がなかったと伝えら、これが茅の輪神事の由来といわれております。

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高瀬舟と昭和の津山駅前商店街

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 昭和57年3月27日高瀬舟進水式の様子(津山市吹屋町・城見橋北側吉井川河川敷)
 高瀬舟を使って吉井川を上下する輸送は、江戸時代になる前から行われていましたが、城下町津山の発展に、高瀬舟の活躍は欠かせないものでした。森忠政や家来たちは、木曽川の川みなと兼山の出身です。河川利用の豊かな知識や経験は、津山でも大いにいかされました。(文:『わたしたちの津山の歴史』より)

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2

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 津山宿(城下町)
 古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
 街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
 慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
 元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
 元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき)

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1

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 特別企画(第5弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第5区)
久米(ふれあい学習館)~津山(市役所)間7.0km(実質8.0km)
令和4年(2022)5月15日(日)実施


 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第5弾として久米(ふれあい学習館)より津山(津山市役所)までを、逆に西から東へと主催「勝間田宿の会」と共催で、「城西まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネッサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、次回10月23日は第6弾(最終回)となります。

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津山郷土博物館企画展「郷土の刀剣―新刀から現代刀まで」

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 2022年2月19日(土)〜 2022年3月21日(月)まで、津山郷土博物館3階展示室で、津山郷土博物館企画展「郷土の刀剣-新刀から現代刀まで」が開催されました。
日本美術刀剣保存協会岡山県支部津山分会の協力のもと、江戸時代初期、津山藩の12人の刀工によって作られた新刀から、現代の刀工によって作られた現代刀まで、郷土津山ゆかりの刀剣類など37点が展示されました。(2022年3月11日撮影)

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津山城の天守の真柱に使用された宗重の大桂

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宗重の大桂
 この宗重の大桂は、樹齢700年の巨木でしたが、慶長年間津山候森忠政が津山の鶴山に城を築いた時に天守の心桂に使われました。
その切株の跡に洞を形成し、再び芽が出て成長して今日の形になったと言われています。
 津山城の建物は、現在ありませんが、立派な石垣と桜の名所です。鏡野町
(文:現地看板より)(2021年11月3日撮影)

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壇上山 清浄院 神宮寺(美作市)

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 当山は天平7年(735)の秋、行基菩薩が梶並の地を巡錫した時、梶並神社の境内が誠に美しく、清らかな霊地であることに深く感銘し、この境内に薬師堂を建立し、別に一寺を建て、これを神宮寺と名付けたと伝えられています。
 当時は仏教の興隆が盛んで、神仏同体説が唱えられました。大日如来は天照大神、阿弥陀如来は八幡神の如く、神を権現菩薩と唱え、僧侶は別当職として神事に参加し、神社の実権を分担し法業として神前に読経する風習が行われていました。
 享保元年(1716)、幕府の宗門改革により、薬師堂は磯神社と改め、神宮寺は大日庵という山伏寺のあった現在の地に移しました。
 また、津山城主・森忠政が当山の清浄なるに感じ、香水山と名付けたと、作州誌に書かれています。
 近年は、檀信徒の協力のもと石垣改修、客殿新築等、境内の整備に努めております。
 また境内のしだれ桜は見事で、遠くからも多くの観光客が訪れています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)

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森大膳亮重政・母親(於竹)の屋敷跡

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 この段が森大膳亮重政君の住居跡だそうです。
住居の跡は、部落から一段と高くなった所にあって、後ろに山をひかえた、かなりの広さをもっていたもののようだ。現在は田となっていて「屋敷」、「屋敷の段」という地名となってのこっている。この屋敷のうしろの山の中腹にみられる古い墓は、供の人達のものであろうと伝えられている。
 森大膳亮重政は、津山藩初代藩主森忠政の長男として文禄二年(1593)、当時忠政が治めていた美濃国(現在の岐阜県)金山で生まれました。第二子という説もありますが、正しくは長男で、側室の子であったことと病弱であったため、相続権はなく、嫡子(ちゃくし)忠広の庶兄として育てられたようです。
 忠政が津山藩主として美作へ来た際には真経に屋敷を構え居住していました。おそらく病身のため藩の任務に就くことが困難で、真経の静かな地で療養をしていたのでしょう。そして、元和四年(1618)にこの地で亡くなります。26歳の若さでした。(2021年9月12日撮影)

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関長治・関政辰墓所(西来寺)

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 関長治は津山藩主森氏の一族(森長継の五男)で、関氏の養子となっている。
 父の森長継は初代津山藩主森忠政の娘の子で外孫である。
忠政は嫡子忠広に先立たれ、外孫である長継を森家の後継ぎとした。長継の実家関氏は森家の家臣で、長継の母は森忠政の娘である。また長継の実父関成次の母は森可成の娘である。

曹洞宗 清瀧山 西来寺 元禄十一年(1698年)
 徳翁良高禅師は、新見藩主関長治に現地を与えられ風木谷にあったと伝えられる西来庵を再興した。禅師は師僧月舟宗胡禅師の遺骨を宇治禅定寺より、開山として迎え自らは二世中興に下った。以降、藩祖関長治、四代長辰の二基を中心とした関家の菩提所となる。(文:現地案内より)

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男山・女山と森家にまつわるはなし

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男山(おんやま)・女山(めんやま)にまつわるはなし
 香南地区の沢田のあたりから西を見ると、大野小学校の向こうに昔話の絵本に出てくるような、三角形の二つの山が目に入ります。北側の高い方を「男山(おんやま)」、南側の低い方を「女山(めんやま)」と呼び、二つを合わせて「男女山(おとめやま)」とも言われています。
 この男女山は、約100万~200万年前、火山活動が行われていた頃、地中深くを通っていたマグマの通路からマグマが地上に噴出し、それが固まって残ったもので、女山の頂上付近では、このマグマが固まって石垣のように六角形にひび割れた「女山の玄武岩」(町指定天然記念物)を見ることができます。
 男山・女山は、その特徴的な形からか、古くから霊験あらたかな山として神聖視されてきました。円宗寺にある吉祥寺も、江戸時代以前は男山の東麓にあったといわれますし、元禄4年(1691)刊行の『作陽誌』にも、男山・女山それぞれの山腹には権現社が祀られており、不思議な現象が多くあったと書かれています。その一つとして、寛永11年(1634)7月7日、津山藩初代藩主・森忠政が京都で急死した日の夜、男山・女山が突然、山が崩れるのではないかと思うほど大きく振動したといいます。
 しかし、よく見ると何の変わりもなかったのですが、しばらくすると京都から訃報が届き、この現象が森忠政の死去を暗示するものであったのだと言われたようです。そして延宝2年(1674)2月に、津山藩二代藩主・森長継の長子・忠継が、38歳の若さで亡くなった時にも同じ現象が起こったと記されています。

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