大渡新田の碑・三村の界栗・千代のいわれ(坪井)
大渡新田の碑(坪井駅前国道の南側)
文化年間(1804~1817)坪井駅のあたりを「大渡」とい、南方村と坪井下村の村境であった。
当時は雑木や籔の荒れ地であったが、福本・池田等8人の力により開墾が行われた。
その2~30年後、美田となって完成した。大渡新田は、水旱(大水や日照り)災い無く五穀豊穣であったが、その下流の住民と灌漑用水を巡って、訴訟沙汰があったと伝えられている。天保8年(1837)に建立されている。
大渡新田の碑(坪井駅前国道の南側)
文化年間(1804~1817)坪井駅のあたりを「大渡」とい、南方村と坪井下村の村境であった。
当時は雑木や籔の荒れ地であったが、福本・池田等8人の力により開墾が行われた。
その2~30年後、美田となって完成した。大渡新田は、水旱(大水や日照り)災い無く五穀豊穣であったが、その下流の住民と灌漑用水を巡って、訴訟沙汰があったと伝えられている。天保8年(1837)に建立されている。
前回組んだ田熊の謎の石碑の後、2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加したのをきっかけに、勝央町文化財保護委員長の赤木耕三さんに、「我が家の山の中に、大きな石碑があるんだけど解らないから気になって仕方がない。」と相談したところ「そりゃ~解明せにゃ~いけんじゃろ。」ということになり、10月10日に赤木さんが現地に来て判読してくださいました。この時は判読できないところが少しあったそうで、再度12日に来てくださって「完全に判読できた。」と赤木さんから連絡が入り、喜び勇んで現地に行き説明を聞きました。(その後も何度か足を運んでいただいたそうです。)
正保4年(1647)8月に建てられた供養碑であること、南無妙法蓮華経 日心院宗有 施主 ニ木宗一〇尉であることが確認でき、福栄山寿林寺2代目の住職が祈祷、二木氏が施主であることが分かりました。
2020年11月8日特別企画(第2弾)「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」に参加してきました。久米ふれあい学習館をバスで出発、岩屋城麓に着き簡単な説明を受け徒歩出発しました。約4時間ほどかけて無事久米ふれあい学習館に戻ってきました。
出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
今回は「つながる出雲街道(東部Ⅱ)」を歩こう会より、特別企画 第2弾として、大井西の会の応援を得て、共催で開催されました。津山市・中北上~同・宮尾間7.8km(実質9.0km)
2020年10月11日、津山市西寺町にある、高野山真言宗 高室山浄光院愛染寺に於いて、33年ぶりの御開帳が行われました。ご本尊は、千手千眼観世音菩薩(木造で高さ約1m)江戸初期の制作だそうです。本堂では厳かに大法要が行われました。
千手千眼観世音菩薩の御手より五色の紐が境内の大塔婆に導かれるとのことで参列させていただき、五色の紐を通じてお祈りさせていただきました。
今年は新型コロナウイルス感染症拡大防止が叫ばれている中なので、三密を避けながら静かに行われました。(写真の一部は、井上さんと中山さんにご提供いただきました。)
2020年10月17日(土)の夜(大隅神社宵祭りの夜)に城東地区の旧出雲街道を交差する小路や上之町の通りに手作り燈籠を並べ町に明かりを灯すイベント「つやま町燈路」~コロナに負けない町・城東!~が開催されました。
開催の趣旨は、冬の新型コロナウイルス第2波到来に向けて、城東地区連合町内会が一体となって実施。コロナで暗かった2020年前半を払拭し、気分を明るくすると共に、来るべき冬のコロナとの新たな戦いに備えて英気を養う目的で開催されました。美しい白壁が燈籠とよくマッチして素敵でした。
令和2年10月27日(火)~11月8日(日)まで、勝央美術文学館町民ギャラリー1で「出雲街道勝間田宿 下山家古文書展」が開催されています。
はじめに
出雲街道は、古代には畿内と出雲を結ぶ道として発展し、人々や文物が行きかう交通の要路でした。江戸時代になると参勤交代のため街道が整備され、休憩や宿泊の拠点として整備されていきました。
勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして栄えていました。宿場内には、諸藩の参勤交代にあたって、大名や供の者が泊まった旅舎が二つあり、おもに津山藩主などが宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主などが宿泊した木村本陣がありました。今回の展示では、下山本陣と本陣を営んでいた下山家に焦点を当て、関連の古文書を展示いたします。
2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
大和朝廷が、武力で全国平定をしたのに対し、出雲は神話に登場するが如く、平和狸に国譲りが行われ、朝廷より優遇されて、鉄の産出も始まり、街道は繁栄してきました。街道は人、物、文化を運ぶ役を果たし、その重要性は五街道(東海、中仙、甲州、日光、奥州)に匹敵し、同等の街道として発展しました。その後の街道も時代と共に、道筋は変遷、消失を繰り返していますが、現存し得いる道で合理性が高く、最も古い道を採用しています。今回は「出雲街道(東部Ⅱ)」よりの特別企画第一弾として、勝間田宿の会の主催で、3区を歩こう会を開催いたします。(文:案内資料より)
安東家 安東弥右衛門 英田郡土居村 森藩 幕府領
大庄屋まで
安東氏の遠祖は、英田保の地頭であった安東千代一丸である。彼の名が、康永4年(1345)の足利直義の下知状に見える。千代一丸は、比丘尼城(美作市山口)の城主であったといわれる。
寛文4年(1664)大寺三郎左衛門が大庄屋を罷免された翌年、山外野村の安東三郎兵衛が土居村に移り、大庄屋に任命されたという。
大庄屋として
土居宿の本陣は、当初妹尾氏が代々勤めていたが、後に安東氏に代わった。安東家は大庄屋も兼務して、土居宿の運営に深く関わった。大庄屋をやめた後も、幕末まで本陣の経営に当り、参勤交代の手配や宿場の維持に尽力した。
文化10年12月19日伊能忠敬の測量隊が本陣に止宿した。
寛政のころ泰禅上人が大阪で鴻池家の子供を助ける。謝礼の小判を辞退し、石の祠を建立し、これが湯大明神であると伝承されている。(文:『出雲街道旅日記(万の峠~津山)』より)(2020年3月28日撮影)
久米町を走る出雲街道には西の端に追分の道しるべと、東の端には中須賀の石燈籠がある。此の出雲街道は、今の久米町の幹線道路とも言うべき道路であるが、此の道路から分れて、宮部川に沿う道を遡って見ることとする。
大字中北下を過ぎ、宮部下地内に入ると、中正小学校のすぐ下流、「青木橋」のたもとに「妙見宮道」という道しるべがある。
妙見宮というのは標高560mの桧ヶ仙の頂上に祀られている北辰妙見宮のことで、桧ヶ仙は、人が宮部の谷を遡る時、右側に見える山並のうち、一番高くよく目につく山で、此の山が久米町の北限かとも思われるけれども、此の山は實は苫田郡鏡野町の地内にある山であり、お宮なのである。