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2021 伝説の地 作楽神社の初詣

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2021年1月2日の作楽神社の初詣の様子です。(作楽神社の詳しい記事はこちらをご覧ください。)
「太平記」と児島高徳  児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
 児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
 これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
 明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。

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仁木永祐と籾山黌をめぐる人々

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令和2年度津山洋学資料館冬季企画展「仁木永祐と籾山黌をめぐる人々」
会期:令和2年11月28日(土)~令和3年2月21日(日)津山洋学資料館 企画展示室(津山市西新町5)


 津山市街の北方、籾保の丘陵に、高さ4メートル程もある、大きな石碑があります。この石碑は、江戸時代後期から明治時代にかけて、この地で医療や教育、政治に尽力した医師 仁木永祐を顕彰するため、門人や地域の人々によって建立されたものです。
 永祐は1830(文政13)年に下津川村(現在の津山市加茂町下津川)の中庄屋 豊田伊兵衛の四男に生まれました。江戸や大坂へ遊学して洋学と漢字を学び、籾山村(現在の津山市籾保)の医師 仁木隆助の養子となって地域医療に尽力。明治時代には自由民権運動にも参加して「美作の板垣退助」と呼ばれました。

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道しるべ・材木供養塔・一畑薬師(久米川南)

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・道しるべ 西側の小さい石碑 出雲街道の表示
・材木供養塔 中央の碑
・一畑薬師 東側の碑
「昔、目の病が流行り、早く治るようにと願い、人畑薬師様に参拝した。
 今後この様な病気が流行らないようお願いをし、また薬師如来を勧請(神仏の分霊を請じ迎えて祀ること)し、碑を建てた。地区では毎年7月に地域の人が集まって、円光寺さんに拝んでもらい、いつのころか始まったかは不明。

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馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様

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 2020年11月8日、「出雲街道 勝山宿の会」主催で、つながる「出雲街道」を歩こう会の特別企画第二弾(大井西の会と共催)で、津山市中北上~宮尾間を歩いてきました。実際に歩いてみないと細かなところまでは分かりませんが、資料を片手に歩いたところを紹介してみます。
 このページでは、坪井下の馬頭観音のイボ神様・念仏供養塔・六体地蔵様です。すぐ近くには餝摩津(しきまず)斉七塚鶴亀神社(鶴坂)・鶴坂神社等があります。

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大渡新田の碑・三村の界栗・千代のいわれ(坪井)

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大渡新田の碑(坪井駅前国道の南側)
 文化年間(1804~1817)坪井駅のあたりを「大渡」とい、南方村と坪井下村の村境であった。
 当時は雑木や籔の荒れ地であったが、福本・池田等8人の力により開墾が行われた。
その2~30年後、美田となって完成した。大渡新田は、水旱(大水や日照り)災い無く五穀豊穣であったが、その下流の住民と灌漑用水を巡って、訴訟沙汰があったと伝えられている。天保8年(1837)に建立されている。

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田熊字福本のなぞの石碑その後

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 前回組んだ田熊の謎の石碑の後、2020年9月27日「出雲街道を歩こう会」に参加したのをきっかけに、勝央町文化財保護委員長の赤木耕三さんに、「我が家の山の中に、大きな石碑があるんだけど解らないから気になって仕方がない。」と相談したところ「そりゃ~解明せにゃ~いけんじゃろ。」ということになり、10月10日に赤木さんが現地に来て判読してくださいました。この時は判読できないところが少しあったそうで、再度12日に来てくださって「完全に判読できた。」と赤木さんから連絡が入り、喜び勇んで現地に行き説明を聞きました。(その後も何度か足を運んでいただいたそうです。)
 正保4年(1647)8月に建てられた供養碑であること、南無妙法蓮華経 日心院宗有 施主 ニ木宗一〇尉であることが確認でき、福栄山寿林寺2代目の住職が祈祷、二木氏が施主であることが分かりました。

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出雲街道を歩こう会「坪井宿」

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 2020年11月8日特別企画(第2弾)「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第6区)」に参加してきました。久米ふれあい学習館をバスで出発、岩屋城麓に着き簡単な説明を受け徒歩出発しました。約4時間ほどかけて無事久米ふれあい学習館に戻ってきました。
 出雲街道とは、播磨の国 姫路を発し、出雲の国 松江に至る約215kmの古道を言う。また、終点は松江を過ぎ、出雲大社とも言われている。
 今回は「つながる出雲街道(東部Ⅱ)」を歩こう会より、特別企画 第2弾として、大井西の会の応援を得て、共催で開催されました。津山市・中北上~同・宮尾間7.8km(実質9.0km)

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物見観音堂の(北土居)

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○概要
 ・所在地 津山市加茂町物見136-1番地
 ・本堂  行基菩薩 ※元は、加茂町毎見稽行山に鎮座
 ・現本堂 延亨3年(1746)2月建立
 ・棟梁  智頭郡真貝野村の住人、内海利左エ門
 ・聖観音 千手観音(四国足摺山金剛福寺)より奉納 
      熊谷直実(1141-1207。平安末期~鎌倉)寄進と伝えられる。
 ・加茂郷八十八ヵ所27番札所(旧36番)
 ・石碑  亨保7年(1722)、因幡の住人、石工・吉田与六エ門 建立
      延亨3年(1746)、福善寺・阿闍梨本了法師 供養


 昔から百万遍供養(数珠回し)が行われ、物見部落の各戸を回って供養が行われていた。終戦後一時中止したが復活し、今は毎年8月吉日に物見町内会が物見老人会に委託して行われている。供養は、福善寺・新城住職が行う。
 なお、近年、津山市観光協会北支部が「加茂郷八十八ヵ所巡礼」を春と秋に行うので、接待も行っている。

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高野本郷の国道53号線沿いに立っている石碑

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 高野本郷に立つ石碑ですが、通るたびに気になっていたので高野公民館の館長にお聞きしたら、「調べてはみたのですが、地区の方にお聞きしても解らなかった。」のだそうです。
 知人に聞いたら「享保5年を調べると、美作地方は作物が不作で8月に入ると、雨が多く田は青できとなり、見入りが心配されている矢先、9月13日(西暦 1720年 10月14日 )には大霜が降り、干害と霜害とにより大凶作となったため10月百姓の多くが津山に嘆願に出かけている。
 享保6年(1721)前年の干害、早冷えで、農作物は収獲皆無の状態になった。これらの凶作と関係があった石碑とも考えられますし、嘆願書を提出すると代表が責任を取らされ処刑されたことかもしれませんね。」とのことでした。(2018年10月24日撮影)

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