出雲街道と勝間田宿

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 出雲街道は出雲往来ともよばれ、古代には畿内から山陽道を通り播磨から出雲を結ぶ官道として機能していました。勝間田には古代の勝田郡衙が置かれ、古来人々や文物が行きかう交通の要衝として栄えていました。
 江戸時代に入ると、出雲松江藩や美作勝山藩・津山藩などの諸大名が江戸への参勤交代の交通路とするため、出雲街道が本格的に整備されていきます。それにともなって、各地に宿泊や人馬の継立てを行う宿場が設置されていきます。
 勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして発展しました。勝間田宿には、大名や供のものが泊まった旅舎が二つあり、主に津山藩主が宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主、宮家・勅使が宿泊した木村本陣がありました。

また、宿駅としての問屋場があり、一定数の人足・馬が常備されていました。このはか、松江藩専用の通信機関として、七里飛脚の継所が設置されていました。 宿場は東西約六百メートで、江戸時代後期には街道筋に七十二軒の商家が軒を連ね、賑わいを見せていました。その中を貫く街道の両側には小川をつくり、滝川 の水を引いて流しています。今も、瓦葺き屋根に卯建が上がり、白壁や格子戸の家がところどころに残されています。(文:案内板より)(2016年1月10日・1月27日撮影)

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写真左:馬つなぎ場・町天然記念物「えのき」馬をつないでおく場所のこと。勝間田宿では常時馬2頭がいた。また、旅人の目印となった「エノキ」の大木がある。
写真右:番所跡。番所とは、宿場の警備や見張りなどを行う役人が詰めたところである。番所跡地には、大正4年に勝間田銀行が建築され、作州銀行勝間田店などを経て、昭和5年に中国銀行勝間田店として利用された。

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下山本陣跡(2014年10月取材より)
街道と真福寺に挟まれた範囲に広い敷地を有し、主に津山藩主が宿泊するための施設とされていた。平成11年には本陣の南端の一角に残された茶室が改修整備されている。その他、本陣に宿泊する人の名前を書いた関札が残されている。

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木村脇本陣跡 2015街道祭(出雲街道勝間田宿
木村本陣だけで宿泊できない場合の予備施設とされたが、諸式は本陣に準じるものであった。木村脇本陣の跡地には、明治45年に建築された擬洋風の勝田郡役所が保存され、町のシンボルとなっている。

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人馬問屋跡                    板屋さん
大名や公用旅行者などの荷物を運搬する人馬継立、文書を取り扱う継飛脚、宿泊の手配などの事務を総括していた。勝間田宿では人足12人、馬2匹を常備していた。交通量が一時的に増加し、常備の人馬で不足するときは、近郷の村から臨時にび徴発した。これを助郷(すけごう)とよび、やがてこの負担が大きくなった。

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出雲街道と勝間田宿の案内板

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木村本陣                    木村本陣前通り
もう一つの木村本陣は、現在、空地となっている。主に松江藩主、勝山藩主などが宿泊するための施設とされ、屋敷図面が残されている。一時、勝間田町役場として使用されていたが、母屋は個人に売却、移転しており、現在でも当時の建物の様子を伺うことが出来る。

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銭屋
写真右:銭屋:街道を挟むように銭屋が存在していた。銭屋は街道の素封家として有名で、現在、伝統的な建物が残されている。北銭屋は名誉町民額田六福の生家として知られる。

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高札場:幕府や藩の法令や規則などのお触れが掲げられた高札がたっていた場所。

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格子窓を残す民家


 勝央町は、津山盆地の東部に位置し、周囲を中国山地の山々に囲まれ、豊富な水量を誇る滝川が、町を縦断している。町の南部に位置する勝間田地区は、大和文化と出雲文化を結ぶ要所として、中世には宗教・政治・経済の面でも発展していた。慶長年間(1596~1615)森氏が入府し、1648(慶安元)年、 出雲街道の改修を行っている。そして、勝間田宿として江戸中・後期に繁栄した。
 宿場には、津山藩主専用の下山本陣とその他の藩主や宮家などの宿泊する本村本陣があった。これらを中心に商家が軒を連ね、中を貫く街道の両側に小川をつくり、滝川の水を引いて流している。まち並みは大きく変わったが、 漆喰塗壁・格子窓やナマコ壁などが、今にも所々に見られ、当時を偲ぶことができる。
 勝央町は中国自動車道の開通により、阪神地域への接近性が高まったことから、工業団地への企業誘致により急速に活性化しつつある。しかし、現代の 車社会の中で、かつて栄えた街道筋も、時代の流れとともに賑わいを失いつつある。町は自治省の「地域づくり推進事業」を受けて、1990(平成2)~1993年度にかけて出雲街道の整備(総事業費2億5100万円)を行っている。事業内容は下記の通りである。(街道整備延長500㍍、幅員4~6㍍)①道路面石畳 敷2634平方㍍②石積水路整備746㍍③ポケットパーク整備3ヵ所④老朽建物除去2戸などである。この事業は地区の歴史と文化、伝統を再確認 し、歴史的景観を生かしたまちづくりにより、市街地景観形成と地区の活性化を目指したものである。しかし、予想に反して住民の反応は鈍く、続く整備計画はなされていない。また、整備事業とともに1991年に「勝央町市街地景観条例」が制定されたが、位置指定がなされないままで施行されていない。
 今後は、石畳の出雲街道にふさわしい魅力あるまち並みづくりが、官民一体となって行われることを期待したい。(文:日本建築学会中国支部中国地方まち並み研究会編著中国新聞社より)