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美作の大庄屋巡り「矢吹家」(美咲町)

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矢吹家 矢吹孫左衛門 勝南郡行延村 森藩
大庄屋まで
 矢吹氏は、平氏と密接な主従関係を結んでいた備前の難波氏から出ているという。文明年間(1469~1486)羽仁の鴛淵城(おしぶちじょう)にいた難波九郎左衛門の後裔難波信正は、荒神山城の花房職秀の家老を務め、神楽尾城攻めに当たっている。職秀が荒神山城を退去した後、行信村で帰農した。
その後、三郎左衛門は難波から矢吹を名乗り、孫左衛門が貞享2年(1685)大庄屋に任命された。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた孫左衛門は、貞享3年、4代藩主森長成の家督相続祝いに植月新右衛門、粟井六郎右衛門、立石五郎右衛門とともに江戸へ行っている。矢吹家は、森藩改易後も庄屋や中庄屋などを勤め、当主は日記を残している。これが『近世行信略記』『矢吹禄』としてまとめられて、のちに『近世作南農村史料』(矢吹修編)として刊行されている。

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真経に住んだ津山藩主の一族(鏡野町)

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 真経部落の北端、山を背にして南西に開けた小高い丘に「屋敷の段」という地名がある。その昔、慶長八年(1603)美作の領主となった森忠政公の第二子重政君が若き生涯を終えた屋敷跡である。
 その南方約二百米ほどの所に「春谷口」という地名がある。この東の山腹三十米ほど上がった地点に御墓所(町指定史跡昭和五十四年四月一日付)があり、御墓畝と呼ばれている。重政君を火葬に付した場所であるともいわれる。
 森家先代実録によると、
「重政君御名大膳亮(だいぜんのすけ)、文禄ニ癸巳年四月二十三日濃州金山に生まれ給う。元和四戌午年六月五日作州苫南郡真経村にて御年二十六歳にして卒し給う。同所槇尾畝に葬る。墓印に柊の木一株あり。その後久米郡南里方村栃社山誕生寺に改装す。-瑞応院殿光禄桂林俊芳大禅定門

 重政君の御母堂は山内源左衛門の養女にて香々美という。川中島より引越し作州かが美の溝尾に居住す。故に皆人呼んで香々美という家女なり。万治三庚子年五月二十五日作州にて死す。八十九歳。同所法源山宗永寺に葬す。―清泰院栄厳寿永大姉
 清泰山栄厳寺にも位牌があり。清泰山松寿院に墓碑あり。分骨して寺内に納む。
 重政君御子御女子一人あり。御名於捨。慶長十六辛亥年苫南郡真経村にて生まれ給う。妙願寺二代目浄公室にならせられる。延宝二甲寅年十月一日卒。御年六十四歳。津山神王山渓花院に葬す。
―清光院殿慈沢性潤大師 影像を妙願寺後堂に安置す。」という。

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曹洞宗 巨龍山 定光寺(高梁市)

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 僧都が大同2年(807)深山幽谷の地で仏典の研究に適し、医術のための薬草・薬石が近くにあるため、ここに桓武天皇からいただいた「法皇山萬年堂」を名乗り、法相宗のお寺として創建されました。翌大同3年(808)には弘法大師が僧都を訪ねてこの地を訪れています。嘉吉年間曹洞宗に改宗され現在の37世までつづいていて、平成31年(2019)の「晋山結制」の儀式の際「玄賓僧都没後1200年法要」も同時に挙行されています。

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「方谷園」築庭師は作州津山の岡島亀吉

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「方谷園」
 山田方谷は幼少より孝心深く、学問に優れ、長じて松山藩有終館の学頭となり子弟の教育に努め大石隼雄、三島毅を始め多くの人材を育成した。後に、松山藩の元締役、吟味役となるや藩の窮乏を救わんと上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励を掲げ藩政改革を成功せしめた。
 明治維新の際には藩主勝静を補佐して難局にあたり、板倉家を存続させ松山藩や、領民を救い今日に至らしめた。明治の新政府は、方谷を政府の要職に迎えんとしたが固辞して受けず、専ら子弟の教育に専念した。方谷没後、上房郡教育会の発足によりその墓前に庭園を築き先生の英霊をお慰めし、その功績を顕彰して末永く後世に伝えてひとびとの模範となるべく築庭した。(文:現地看板より)(2021年1月27日・4月11日撮影)

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第8回 作州忍者鶴山隊学習会

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2020年12月16日(水)午後1時30分~午後3時から、津山市大谷 津山市中央公民館 1階大会議室で、「第8回作州忍者鶴山隊学習会」がありました。いまや忍者は世界中で知れ渡っています。NHKでも忍者の特集があったり、また、ブラタモリなどで全国的にも脚光をあびていますね。
 さて、今回のテーマは「津山出身の蘭学者 箕作阮甫とその家系」講師は小島 徹氏(津山洋学資料館館長兼津山市史編さん室長補佐 学芸員)です。今回は密を配慮し方多くの方に参加して頂くため大会議室を確保しての学習会でした。(第7回勉強の様子

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美作の大庄屋巡り「安黒家」

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安黒家 安黒和助 東北条郡大篠村 松平蕃
大庄屋まで
 安黒氏は、赤松氏の家臣であったといわれる。
嘉吉元年(1441)嘉吉の乱によって赤松満祐が滅んだ時、津山の林田に逃れ、安黒姓に変えたという。林田には安黒谷の地名が残っている
 大篠の屋敷跡の南にある台山城城主として尼子氏・浦上氏・毛利氏に従った後帰農した。
 元文5年(1740)安黒和助が大庄屋に任命された。
大庄屋として
 大庄屋としての記録がなく、不明である。安黒豪平は津山藩士広瀬家の養子になり、その子広瀬臺山は、津山藩のお抱え絵師として有名である。臺山は山水画を得意とした

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弥生住居跡から見た夕焼け(沼)

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 津山市沼の弥生住居跡から見た夕焼け(2020年8月13日撮影)
お盆のお墓参りから帰る途中の津山市田熊で見た落日がとても美しく感動しました。そこで、写真を撮りながら自宅まで帰ろうと思い、落日に向かいながら車を走らせました。丁度、沼の弥生住居跡地に差し掛かった時が一番きれいだったので、そこで暫く夕日を眺め自宅へ帰りました。
 自然というものは本当に美しくもあり、雄大で人の心まで癒してくれますね。

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山田純造生家(美作市海田)

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 山田純造さんの生家をお尋ねしてきました。現在は子孫で現役医師の山田信夫さん(中島病院で名誉院長)に色々とお聞きしてきました。築200年以上経ったこの家は色々と直しているとのことですが、柱や梁は昔のままで風情がありました。また、お庭の庭木は綺麗に手入れしてあり、伝統を守ることは大変な努力がいることを改めて感じました。


 山田家は、海田(現在の美作市)で代々医業を営んできた家系です。医家として6代目にあたる純造は、大坂にあった華岡流の医塾合水堂で学び、天然痘予防の牛痘種痘の普及にも尽力しました。山田家の医院「仙巌堂」には、治療を求める人たちが雲が湧くように集まったといいます。
2016年12月3日山田純造生誕180周年記念の講演より)

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千光寺のしだれ桜・椿・サンシュユの花

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 2020年3月17日お彼岸の入りです。朝は寒かったのですが、日中は暖かな陽気になりました。そろそろ千光寺のしだれ桜が気になりお昼にいってまいりました。西側の二世のしだれ桜がぽつぽつと咲いていました。コロナウイルスで学校も休校になっているからでしょうか、お孫さん連れでお墓参りに来られていて賑やかな声が聞こえていました。

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景清山 往生院 寶性寺(鏡野町)

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景清山 往生院 寶性寺
 縁起によると、各地で戦功のあった藤原景清が将軍足利利義詮から恩賞として当山の地を賜り、館を構え母と暮らしていました。やがて、武勇にすぐれ衆望厚い景清は、出世を妬んだものに謀殺され、悲歎にくれた母も後を負うように亡くなってしまいました。
 これを哀れんだ叔父の景明は景清母子の亡がらをねんごろに山内に葬り、弔いのため仏門に入ることを決心し、剃髪しました。そして、館を精舎としてご本尊を求めていた景明は、二宮村円通寺の地蔵尊を玉甫上人に乞い、当山のご本尊として安置しました。
 この地蔵尊は、弘法大師が諸国を行脚の折、疫病が流行しているこの地で、人々の苦難する姿を目の当たりにされ、平癒祈願をするために刻まれた地蔵菩薩とされています。
 この時貞治六年(1367)、玉甫上人を一山の開基とし、景清山寶性寺往生院と名付けられたと記されています。
 以来、藤原景清一族の位牌とお墓を供養するするお寺として、現在に至っています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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