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取材記事内を検索ワード「森長継」で検索した結果,68件の記事が見つかりました。

旧三日月藩校広業館

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由来記
 当記念館は旧三日月藩校広業館の建物の一宇を移して、改築したものである。
 広業館は寛政7年(1795)五代目藩主森快温公の命により乃井野に建てられ初代の館長は深澤若山(薫)であった。盛時には生徒数文学部武芸部合わせて580名に達し多くの人材を輩出したが明治初年廃藩置県により広業館は日此に移転し名を改めて広業尋常高等小学校となり、更に近時町村合併により、三日月小学校と改名し三方里山の中腹に移転新築して今日に至った。
 今般各方面の熱意により旧広業館の建物の一部を当地列祖神社の境内に移し永くその史蹟と伝統を保存することとなった。
 この記念館の建設により、三日月町の文化の興隆と体育の進行に大いに貢献することを祈念して止まない。 以上 昭和55年4月 竹田直撰(文:現地案内板より)(2023年5月18日撮影)

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森家ゆかりの乃井野陣屋藩主庭園と列租神社

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 列租(れっそ)神社の左奥に見える立石群は庭園跡で、乃井野陣屋のもとと考えられ、江戸時代の絵図に、この場所が「ツキ山(築山)」と記されているのが庭園に相当するようです。
 庭園の中心には、高さ3mと1.3mの立石(守護石)を据え、枯滝に見立て、周りに築山と配石を据える「築山式枯山水庭園」で、武家好みの庭園と言えます。その様式から作庭年代は森家が陣屋を構えて間もない18世紀前期と考えられます。
 もとは書院に面する庭園であったと思われ、歴代藩主や賓客が眺めたことでしょう。
 列租(れっそ)神社は森家の租、美濃国金山城主森可成(よしなり)、津山藩租森忠政(ただまさ)、三日月藩租森長俊(ながとし)の三霊を祀る神社で、江戸時代は武蔵国目黒行人坂(現・東京都目黒区)にあった三日月藩邸に祀られていました。明治維新後、明治3年に当地に社殿創立、明治14年には拝殿、幣殿などの建物が建設されました。
 地元ではこの社を列租さんと呼び、旧藩士で結成された祖霊社保存会では4月9日を祭日として祭られています。(分:現地案内板より転載)(2023年5月18日・20日)

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2023 愛染寺のぼたんの花

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 2023年4月23日に津山市西寺町の愛染寺にぼたんの花を観に行ってきました。毎年4月中旬〜5月初旬には境内の牡丹が見頃です。 愛染寺は西寺町を東西に走る旧出雲街道に面しており、鐘楼門の両脇に仁王堂が付属している珍しいもので、森家二代藩主森長継公祈願所。鐘楼門及び仁王堂は岡山県指定重要文化財となっています。大師堂裏に赤穂義士神崎与五郎生母の墓があります。

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2023 千年寺の満開のさくら(下田邑)

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2023年3月30日の千年寺の満開のさくら
 長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2009年4月5日取材)(2014年4月6日取材)

 徳川幕府と後水尾法皇は中国よりの渡来僧隠元禅師に帰依され宇治の地(後水尾法皇のご生母中和門院の別荘)を付与し、摂津国麻田藩主(青木氏一万石)を普請奉行として黄檗山万福寺を創建されました。
 美作の国主森長継公(十八万六千五百石)も又隠元禅師に帰依し、領内に教義を具現する長継山千年禅寺の造営を発願されました。それは「泰国安民武運長久」を祈念すると同時に一種の公共事業でもありました。鎌田源太兵衛を普請奉行として農閑期に作業をし手当ては毎日支給をするように・・・又戦乱に備える要害としての機能も持たせています。
 神楽尾の山城を一望に治める千年寺は鶴山城とも連繋されていたのです。千年寺一帯は西に紫竹川が流れ周囲の山を利用して進入路を大門(田邑川東向公会堂)に集結させ龍吟径を通って寺に入るようにし、他は谷の湿田を利用して侵入を防げました。
 寛文八(1668)年十一月七日、長継山千年寺は創建され翌年の春、二月五日開山鉄堂和尚(美濃の出身)が入山致しました。

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瑠璃山 本光寺(東一宮)

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瑠璃山 本光寺案内
 長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
 寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森長継(ながつぐ)、黄檗(おおばく)の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名。
 東一宮中村(ちゅうむら)七十五石六升六合、西一宮湯谷(ゆだに)村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として復興、森家菩提寺となる。
 元禄十年(1697)、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬(もりつしま)守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治(せきびぜんのかみながはる)、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直(いずみのかみながなお)等の諸候より茶湯料(ちゃとうりょう)として各高十石宛寄附あり。
 且、松平家津山へ入城の後、その由緒特殊なるを以って、寺格取扱最鄭重にして年々高米寄附あり しかし明治維新に及び諸候の寄付は全く廃絶 戦後の農地改革(昭和22年)、を経て今日に至る。
 境内は天然の砦を成していて、両側の外堀「放生池(ほうじょういけ)」を通って境内に入る。門前に鉾立(ほこたて)石、土塀には銃眼もみられる。また、裏庭は自然をとり入れた「蓬莱(ほうらい)の庭」と呼ばれ造園は衆楽園と同じ長継である。

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2023衆楽園のさくら

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 2023年3月24日と28日の衆楽園の桜の花の様子です。
 この衆楽園は、津山藩2代藩主・森長継(ながつぐ)が京都から作庭師を招いて造営された廻遊式庭園で、京都御苑内にある仙洞御所(せんとうごしょ)を模して造られました。庭園内の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。また、森家改易後、長継の側室で継光院殿(お偕の方)と子どもたち(於偕は本光院のほか、森對馬守長俊 関備前守長治、防州徳山藩主毛利飛弾守元次の室となった於千、また良洪院殿(大吉)ら五子の生母)が最後まで住んでいたところです。 継光院はお城の北御屋敷(衆楽園)に住み、子供達の教育に力を注ぎ、自らは禅を学び、文学を愛した才女です。(衆楽園は、ロバート キャンベルさん絶賛のお庭です。

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衆楽園 2023二度目の雪景色です。

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 2023年2月21日衆楽園の雪景色
朝起きてみると市内一面が雪景色となっていてびっくりしました。でも、通勤途中の道路の雪は解けてきていましたので、前回の1月25日の大雪とは違いすぐに解けてしまいました。今年に入って二度目の積もる雪でしたが、園内では松の剪定作業が始まっていたり、雪帽子を被った可愛い山茶花に近づいている春を感じながらほっこりしました。

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2

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 津山宿(城下町)
 古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
 街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
 慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
 元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
 元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき

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目指せ!衆楽園をモネの池に大作戦!

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 2022年5月15日、「目指せ!衆楽園をモネの池に大作戦 ~今こそ起こそうムーブメント~」と題して一般社団法人津山青年会議所が市民や行政と共に衆楽園の池の浄化作業を行いました。
 この衆楽園は津山藩2代藩主・森長継が京都から作庭師を招いて造営された廻遊式庭園で、京都御苑内にある仙洞御所を模して造られた由緒ある庭園です。平成14年9月には「旧津山藩別邸庭園(衆楽園)」として国の名勝に指定されています。大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目ですが、なんと出来たのは衆楽園の方が先だそうです。
 この庭園ですが、昨今、枯れた睡蓮が重なり、汚泥となり水質汚染となっていて異臭も放つようになっていました。昔は睡蓮はなかったそうですが今は異常事態です。そこで、この池をモネの池にしようと立ち上がったのが、市民、行政、一般社団法人津山青年会議所です。睡蓮を除去して、バクチャーを使い水質浄化を行い、良くない循環から良い循環を作れば、微生物が活性化され水質が安定して、継続的に睡蓮の異常繁殖もなくなり、環境が安定するそうです。
 全ての睡蓮を除去できなかったのですが、端から端まで除去する事で、水の流れが回復できるようになったそうです。今後も衆楽園が多くの皆さんに愛され、誇りであり続けることを願ってやみません。

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2022 塩手池のさくら満開!

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良いお天気に恵まれた2022年4月3日・5日の塩手池周辺のさくらです。
 塩手池は津山藩主・森長継によって築造されたと伝えられるため池で、大正14年から昭和4年までの5ヶ年をかけて改築された。かんがい用のため池として岡山県で最大の貯水量誇るという。周囲約4kmでは美しい風景を眺めながらの散策やサイクリングができる。(岡山県ダム便欄HPより)

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