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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2

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 津山宿(城下町)
 古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
 街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
 慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
 元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
 元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき

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津山郷土博物館企画展「郷土の刀剣―新刀から現代刀まで」

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 2022年2月19日(土)〜 2022年3月21日(月)まで、津山郷土博物館3階展示室で、津山郷土博物館企画展「郷土の刀剣-新刀から現代刀まで」が開催されました。
日本美術刀剣保存協会岡山県支部津山分会の協力のもと、江戸時代初期、津山藩の12人の刀工によって作られた新刀から、現代の刀工によって作られた現代刀まで、郷土津山ゆかりの刀剣類など37点が展示されました。(2022年3月11日撮影)

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津山郷土博物館企画展示「江戸一目図屏風実物展示」・津山藩松平家に伝わる甲冑「朱漆塗本小札啄木糸威胴丸具足」

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 春はつやまの観光キャンペーンの一環として、津山郷土博物館において企画展示「江戸一目図屏風実物展示」を開催する運びとなりました。江戸一目図屏風は津山藩のお抱え絵師鍬形蕙斎が描いた江戸の鳥瞰図で、今回はその実物を展示します。本屏風は県指定の重要文化財である大変貴重な作品で、今回は平成29年度以来の実物展示になります。また、描かれている視点が、東京スカイツリーからとほぼ同じということで、同展望デッキに複製が展示されていることでも有名です。あわせて蕙斎のほかの作品も展示しておりますので、この機会に蕙斎ワールドをご堪能ください。
 また、先般津山藩松平家に伝わる甲冑「朱漆塗本小札啄木糸威胴丸具足」が岡山県重要文化財の指定を受けましたので、あわせて皆様にご披露させていただきます。江戸時代初期の特徴を残す貴重な甲冑ですので、あわせてご覧下さい。令和4年4月1日 津山郷土博物館

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国登録有形文化財「翁橋」の表面舗装剥離及び調査

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 2021年12月9日の良く晴れた日の翁橋(おきなばし)の姿です。
翁橋のレンガ舗装について
 翁橋は、津山市城西地区を南北に流れる藺田川(いだがわ)を渡る橋として、西今町から宮脇町にかけて大正15年(1926)に建設された。令和2年度に実施した、橋面の状態を確認するための試掘調査で橋面が特殊なレンガで舗装されていることが発見された。
 発見されたレンガは車道用の舗装レンガと推定される。歩道レンガは大正10年(1921)ごろから昭和10年(1935)ごろまで車道用の不燃道路資材として製造された。その後、コンクリート、アスファルトに取って代わられたため、わずか13・4年という短期間で製造終了となり、道路舗装の事例はほとんど残されていないと考えられる。(文:津山市歴史まちづくり推進室より)

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秘史後南朝の里・高根を歩く「如意輪観音寺跡」

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秘史 後南朝の仙洞御所の地、高根について「如意輪観音寺跡」貞和3年の石造(宝塔)
 酒本武都主氏の親切な道案内により、その幻を求めて歩きました。翌日の令和3年6月4日地区に古い物が多くあることを知ったことにより、せめて石造物の文字だけでも正しく読んでみようと、独り調査に入った。この日私的には大変なものを確認できた。
 地元では先人達が、「高仁山長福寺境内 如意輪観音寺跡」と言われる場所には宝塔(仮)があり、それには(判読)「貞和三丁亥天〇〇(1347) 願主 万門」と彫られていることに気づいた。
 これは町内で重要文化財指定されている
  間 山  四角宝塔康永3年(1344)
  一本松  如意経塔延文6年(1361)
  東光寺  油地蔵 康暦2年(1380)県指定
 この中では二番目のものである。手水鉢には昔は髙仁であったとも奉納者が示していた。
 かつて秘史を語ってきた人達は以上のことを知っていたのでしょうか。詳しくは後日の調査を待つことにして地元区長へ中間報告することとした。参考文献:『博士 川勝政太郎著 石造美術入門・同 石造美術の旅』より(文:勝央町文化財保護委員会 委員長 赤木耕三)

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出雲街道を歩こう会「江見~ノースヴィレッジ」【2】

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2021年10月24日(日)特別企画第3弾 つながる「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会「ふるさと再発見 美作国歴史遺産の古道」(区間 美作市・江見~勝央町・ノースヴィレッジ9.3Km)【2】

郷土記念物 笠懸の森
 元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐に流される途中お休みになられ、武士の笠懸の技をご覧になった故事から名づけられたこの森は、現在では11本の木々に覆われ荒神様を祀る鎮守の森となっています。中には、天保年間の荒神さまの石灯籠や文久年間の墓、また、その他現在に至る記念碑など様々な石造物が笠懸の森の中に混在し、現在でも信仰の対象として祀られています。
 また、樹齢300年のムクノキの巨木をはじめ、エノキの巨樹が繁茂しており歴史の古さを物語っています。(文:現地看板より)

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第二回 つやま町燈路(城東地区)

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 令和3年10月23日(土)18時~20時、第二回つやま町燈路が、城東地区12町内、11箇所(中之町は当日不幸があり急遽中止)で2610個の灯籠が灯されました。
 今回もウィズコロナの観点から事前告知を一切行わず、地域住民のみのイベントとして開催されました。上之町6丁目と西新町が共同で旧出雲街道の参道開始点から大隈神社の本殿前までを700個の燈篭で光の道を作った。(県重要文化財付近はLED光源を使用して火災の発生を防止した。)
 また、旧出雲街道沿いの民家の軒先に並べた灯籠は、重伝建の町並みとマッチした景観となり、多くの地域住民が沿道に出て景色を楽しんだ。
2020年10月17日2020年10月17日(土)の夜(大隅神社宵祭りの夜)

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吹屋の町並み(高梁市)

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 標高550mの山領に、塗込造りベンガラ格子の堂々たる町屋が建ち並んでいるのは、江戸時代末期から明治にかけて、中国地方第一の鉱山町に加えて江戸時代からベンガラという特産品の生産がかさなり、当時の鉱工業地として大いに繁盛した面影です。
 幕末から明治時代にかけて吹屋はむしろ「ベンガラの町」として全国に知られていました。しかも、吹屋街道が拠点として、銅や中国山地で生産される砂鉄、薪、炭、雑穀を集散する問屋も多く、備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き、旅籠や飲食店の立ち並ぶ山間の市場として吹屋の繁盛を保っていました。
 これらの銅や鉄、ベンガラは吹屋から更に荷馬に負わされて成羽へ運ばれ、それから高瀬舟で玉島港に集められ、玉島港から上方や西国へ輸送されました。江戸時代から成羽や玉島の繁栄は吹屋の鉱工業に負うところが大きかったと言われています。

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森忠政の義母生光院霊屋(久米南町)

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生光院霊屋(みたまや)
 創建時の名称、美作国主初代森忠政がその義母生光院のために建立されました霊屋で、正面須弥壇には、生光院が生前崇拝の弥陀如来立像と生光院の位牌とを安置されました。施工者は大阪の番匠勝右衛門、当時の住職は第12世深誉。
 生光院は柴田勝家の女で、初め塙備中守直政に嫁し、直政死後原隠岐守に再嫁せられ天正11年(1583)隠岐守戦死により生光院はその子長満(4歳)の成長を護るうち天正18年(1590)秀吉は長満が勝家の外孫であるの故を以て、之を殺した。生光院は悲しみのあまり全く志を失い越前大野木に隠棲するようになり大野木氏ともいわれます。
 森忠政は、塙直政の養子となる約束がありましたが、直政死のためそのままとなり慶長8年(1603)美作国主として津山に来られました。慶長15年(1610)大野木氏が越前に存世のことを聞かれ、大いに懌び、家臣川村左介を特派して大野木氏を津山に迎え250石を給するなどして配慮至らざるなく、常には家臣富田久右衛門を傅として諸般世話せしめられました。

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木山神社 奥宮(真庭市)

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 里宮から、木山寺の参拝道の標識に従って車を走らせること約7分、真言宗別格本山木山寺のすぐ横に、木山神社の奥宮があります。昭和37年に今の木山神社の場所へ遷宮(神様のお引越し)するまでは、この奥宮が木山神社でしが、元々、木山神社と木山寺は一体の神仏習合の「木山宮」でした。
 古くは「木山牛頭天王」とも言われ、室町期には赤松義則・尼子晴久・宇喜多秀家・森忠政からも信仰を受け、寄進もされた記録が残っています。
 建物は天正八年(1580年)に建てられたもので、岡山県の重要文化財にも指定されています。また、奥宮境内地内の随身門は真庭市の重要文化財、随身門のなかに安置してある門客人神像も岡山県の重要文化財に指定されています。奥宮には今も木山寺と同じく、牛頭天王が祀られています。
 奥宮の本殿は天正5年の大火の後天正8年(1580)に再建されたものであり、また奥宮随神門の随神像は室町時代の應永3年(1396)の作で天正5年の大火の際にも焼失することなく現存している。(文:木山神社HPより抜粋)(2021年6月15日撮影)

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