鶴山城址にあった「ありもと旅館」

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 津山城(鶴山公園)内にあった鶴山塾(現在は小田中の旧鶴山幼稚園跡へ移転)の建物は、令和4年に全て取り壊されました。
 平素から津山城(鶴山公園)へと上がるのに、津山圏域雇用労働センター横の階段を使用していたものですから、その階段を上がりきった所にあるこの門は何だろう?と長年思っていました。今年に入りその建物が取り壊されると聞いて、この建物の歴史を知りたくなって調べてみました。
 写真に写っている建物は「鶴山塾」で、その前身は、「ありもと旅館」だったという事が解り、その「ありもと旅館」を調べていくうちに、津山城が取り壊された後の明治20年頃の津山城跡の様子など、いろんなことが解りました。

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調べてみると、旧鶴山塾は、薮木金一郎著『津山城内御殿及山下士邸略図(明治3年現在調)』では、元仁蔵屋敷となり、その下の段(城南医院跡)は、元赤座屋敷で、御新館世子康倫公御住居となっているのが解る。(『津山地方郷土誌第一冊』より)

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(正保二年 美作国津山城絵図より)

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                       (写真:津博2020.1 No.103 研究ノートより)

愛山の旧観についての一考察  
 当館には、愛山文庫と呼ばれる文書群が収蔵されている。愛山文庫とは、旧津山藩主松平家に保存されていた藩政文書、和書漢籍類の総称である。中でも、藩政文書や松平家の記録は「津山藩松平家文書」という名称で県の指定重要文化財になっている。文庫名になっている「愛山」とは、愛山文庫の文書群が収蔵されていた松平家の土蔵があった一帯の呼び方であり、現在の地蔵院(津山市小田中)の周辺に該当する。
 この一帯には、土蔵の他に、松平慶倫の廟所や東照宮、宕々庵と呼ばれる建物があった。今でも、第九代藩主松平慶倫墓所の唐門には「愛山」の扁額が掲げられている。
 愛山文庫については、文書・和書漢籍類ともに目録が刊行されており、当館で毎年翻刻・刊行している「町奉行日記」もその資料群の中の一つである。
 しかし、文書類が保管されていた松平家の土蔵は既に取り壊されており、宕々庵もだんじり倉庫に姿を変えてしまった。現在は、愛宕堂と東照宮(現地蔵院の本堂)が残っているものの、元々東照宮があった場所には幼稚園の建物があり、愛山と呼ばれていた周辺から当時の様子をうかがうことはできない。また、関係資料についても、現段階では十分な数を確認できているわけではないが、本稿では、『明治四年 愛山廟司伺書扣』(津山藩松平家文書F5-20)を基本資料として、愛山の 旧観について検討を行う(以下、特に注記のない場合は当資料に依拠する)。
愛山廟の位置
 前述の通り、この愛山という場所は、第九代藩主松平慶倫とその妻の廟がある場所である。しかし、慶倫以前の藩主は愛山ではなく、泰安寺(津山市西寺町)を菩提寺として祀られている。なぜ慶倫のみこの地に廟所があるのだろうか。これは、今回愛山についての検討を行うにあたって、疑問を抱いた点であった。
 明治四年(一八七二)廃 藩置県直後の七月、最後の津山藩主松平慶倫は病のためこの世を去った。慶倫の死後すぐに出された「慎由公神葬祭建白書」 によると、祭政一致の御趣意にて、臣民ともに神道葬祭を一般とするように通達され、神事は日に興張し、仏事は月に衰廃する時代である。これまで通りの葬祭を行い、万一廃仏等の動きがあり、取扱いが難しくなってしまうことは心苦しい。ついては、新正四位様(慶倫)の葬儀は神式を採用してほしい(候文の原文を筆者が口語訳)。とある。この建白書を受けて、慶倫の葬儀は神式に決定し、愛山東照宮の側に廟が造られた。
 慶倫の廟所が愛山に設けられた理由はわかったが、もう一点不思議な点がある。それは、廟所の配置である。資料内にある絵図を見ていると、慶倫の廟は地蔵院・東照宮から独立した配置だったことがうかがえ、これは現在も変わらない。配置に関して、廟所に玉垣が設置された記述があった。設置の理由として、廟所の門を開けていると、門の外から廟を見通せてしまう。それを防ぐため、玉垣を設け、同時に番人の詰所と防火道具入れも用意したということであった。さらに、東側に板塀ま で設置しており、通りからも廟所の様子をうかがうことができないようにしている。また、図1と図2は同じ場所の絵図だが、図1は文化十一年(一八一四)、 図2は明治四年に描かれたものである。図1には、赤枠で示した通り廟所の敷地から東照宮へ抜けられる階段があるのがわかる。しかし、図2の同じ場所にはそのような階段の表記が見られず、廟所から直接東照宮へ抜けられないように見える。
 慶倫の廟が独立した配置になっているのは明らかではあるが、それが格式を強調するためなのか、東照宮への参拝経路を変更したためなのか。その意図を裏付けるものはなく、現段階では定かではない。
宕々庵の建設
 宕々庵とは、かつて旧津山藩主松平家の別邸や事務所だったといわれている建物である。また、作家の谷崎潤一郎が戦時中津山へ疎開した際に生活した場所でもあるが、現在は取り壊され、跡にはだんじり倉庫が建っている。
 この宕々庵の建設について、資料の明治四年十一月にその記述があった。「御廟所守居宅之雅名文学家へ相談仕候処愛宕之宕字ヲ採り宕々庵」と記されている。ここから、建設当初は松平家廟所守の居宅に予定されていたことがわかる。また、宕々庵という名前の由来についても、愛宕の宕の字をとって「宕々庵」と名付けられたことがわかる。

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 宕々庵建設に関連する記事を見ていると、興味深い内容が記されていた。宕々庵は愛山の敷地内に新築したのではなく、「新御殿」、「新御屋形」から建物を移築し、庭石や植木も愛山に移動した、とある。この「新御殿」、「新御屋形」について、二通りの表現がなされているが、同一の資料内でも書き手が異なるため、両者は同じ建物を指している可能性が考えられる。では、これらは具体的に何を指しているのだろうか。
 この当時で御殿や御屋形と呼ばれうる建物といえば、慶倫の下御殿(現在の文化センターの場所にあったとさ れる)だろうか。この下御殿は全焼したのち、明治二年(一八六九)に再建されて いるため、宕々庵の建設時は築約二年ということになる。築二年であれば、「新」と呼んでも差し支えはないようにも思われるが、慶倫の下御殿をわざわざ「新御殿」などと呼ぶだろうか。
 そこで、明治三年に作成された「津山城内御殿及山下士邸略図」を見ると、宮川に面した位置に「御新館 世子康倫公 御住居」と書かれた場所がある。加えて康倫は、明治四年七月に慶倫が死去した約二か月後、津山を発って東京へ移っており、この段階では誰も住んでいないことになる。さらに、「津山誌』の慶倫屋敷についての項目において、「九月嗣子従四位康倫帰京の後之を毀つ」とあり、これが屋敷を愛山に移転させたためでないとすれば、宕々庵の建設が計画された明治四年十一月には慶倫の屋敷は存在しないことになる。したがって、ここで言う「新御殿」、「新御屋形」は、康倫の居所を指しているとするのが妥当ではないかと考える。
「新御殿」、「新御屋形」から庭石や植木を移していることから、宕々庵には立派な庭があったのだろう。その風貌から、 別邸というイメージがより層強くなったようにも思われる。建物も取り壊され、当時の面影をうかがい知ることができないのは非常に残念である。
 宕々庵について、単純に松平家の別邸・事務所として想定していたが、当初廟所守の居宅であったものが、後に松平家の事務所としての機能を果たすようになっていったと考えられるのは、今後も重要視していくべき点である。 愛山文庫には膨大な数の資料があるが、愛山の旧観についてのものは、まだ十分といえるほど確認できておらず、明確な結論は出せていない。今後も資料の収集と検討を行い、興味深い資料の紹介や、研究の成果を報告できるよう努めたい。 小川 綾乃
(写真:津博2020.1 No.103 研究ノートより)

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日本旅行倶楽部津山会発行「作州路」美作紹介號より
(関西の京都と言われる津山の絶景を擅まゝにする―――古城の高台にある情緒のネオン風呂)

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 津山の城の取り壊しは明治7年6月からである。完全に姿を消すまで10か月かかった。濠を埋めて新地通りが出来上がる。その南の端に芝居小屋新地座が出来上がり、こけら落としするのが18年である。城の廃材を保管していて使用したことになる。
 新地座を建てたのはのち津山商工会議所の二代目会頭になる有本立(りゅう)氏の有本家だそうだ。はじめ元魚町の有本薬局店主。いまのヤング忠七店の家で裏に立氏が建てた座敷がそのまま残っていて、その蔵にの一つには、壁いっぱいに明治19年の朝日新聞がはりめぐらされている。新地座の落成と一年違いなのも興味深い。
 立氏は事業家で、山下の旧市庁舎一帯にあったボール紙工場美作製紙社長。戦時中軍に接収されて大阪へ移った。他に中国水力電力監査役などをつとめた。現在「鶴山塾」の元ありもと旅館も氏の手になる。庭園づくりの見事さは知られる通りで、茶人としても秀で、文化人としても一級だった。(文:津山朝日新聞より一部抜粋)

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(切り抜き記事提供:得能良平さん
 得能さんの話では、映画「男はつらいよ」シリーズ最終作寅次郎紅の花のロケが始まる前に、地元を調査する為に山田洋次監督が来て、「こんな所で脚本が書けたらいいなぁ~」と言われたとか。

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門を入ってすぐの庭先の風景

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玄関先の風景

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母屋と庭の風景

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苔むした美しい庭

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津山城(鶴山公園)の石垣            中庭から門を望む

元鶴山塾から西へ延びる桜並木を行くと津山城(鶴山公園)の入り口に着きます。

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近くにある津山郷土博物館

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津山城(鶴山公園)               本丸で咲くさくら

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本丸で咲くさくら