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取材記事内を検索ワード「森忠政」で検索した結果,144件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋「安東家」(美作市)

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安東家 安東弥右衛門 英田郡土居村 森藩 幕府領
大庄屋まで
 安東氏の遠祖は、英田保の地頭であった安東千代一丸である。彼の名が、康永4年(1345)の足利直義の下知状に見える。千代一丸は、比丘尼城(美作市山口)の城主であったといわれる。
 寛文4年(1664)大寺三郎左衛門が大庄屋を罷免された翌年、山外野村の安東三郎兵衛が土居村に移り、大庄屋に任命されたという。
大庄屋として
 土居宿の本陣は、当初妹尾氏が代々勤めていたが、後に安東氏に代わった。安東家は大庄屋も兼務して、土居宿の運営に深く関わった。大庄屋をやめた後も、幕末まで本陣の経営に当り、参勤交代の手配や宿場の維持に尽力した。
 文化10年12月19日伊能忠敬の測量隊が本陣に止宿した。


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恵日山 興隆寺(鏡野町)

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 当山は養老三年(719)の開基、本尊の大日如来像は行基菩薩の作と伝えられます。眉間の白毫より恵日の光明が虚空に遍く満ちゆくのを見て、恵日山と号します。
 天文二十二年(1553)十月二十六日、飛び火の災により消失。永禄二年(1559)三月二十一日、中興光阿上人により再建されました。
 また慶長九年(1604)美作国主・森忠政公より、松平公、明治に至るまでの間、毎年寺領二十石を賜る祈願所でもありました。
 現在も毎月二十八日をご縁日として、息災延命と福寿無量をご祈願致しております。
 また子安大師の由緒ある尊像を安置し、子育ての祈願所としても親しまれております。
(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(2020年6月7日撮影)

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キリシタン灯篭

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 ヨーロッパにつたえられた津山
 17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)

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美作の大庄屋巡り「島田家」(院庄)

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 島田家 島田太郎兵衛 西々条郡院庄村 森藩
大庄屋まで
 島田氏は、鎌倉幕府の役人としてこの地へ移り、代々太郎兵衛を名乗ったといわれる。美作一国の領主となった森忠政は構城の築城にあたり島田家に居住し、忠政の子忠広は島田家で生まれている。
 島田家は元禄10年(1697)まで4代大庄屋を勤めたが、5代目は幼少であったため、後見役を勤めていた江川四郎左衛門が森藩改易後、大庄屋に任命された。
大庄屋として
 慶安元年(1648)布原台地の開発に関わった。

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千代稲荷神社と赤い太鼓橋

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2020年2月21日の千代稲荷と宮川にかかる赤い太鼓橋(2009年の取材記事
 大きな赤いちょうちんが目印の千代稲荷神社(せんだいいなりじんじゃ)の本殿は津山市指定重要文化財(建造物平成15年2月17日)です。前回の取材時よりは参道の赤い太鼓橋の色が薄くなったと感じました。また、背後の樹木はすっきりして石垣がよく見えだしましたね。(嘗ては稲荷山地区に、佐平焼の登窯が五室ありました。

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美作の大庄屋「福本家」

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福本善兵衛 久米北条郡坪井下村 森藩~幕府領 挙母藩(ころもはん)
大庄屋まで
 家伝によれば、福本家の先祖は原田氏である。原田行佐の二男政次が坪井村の笠森神社近くに移住した。政次は、亀山城落城のとき戦死した叔父の福本藤兵衛の跡を継ぐため福本に姓を変えたという。政次の孫小左衛門は、村内の比津免(ひずめ)に移住し、後に森藩の大庄屋に任命された。小左衛門の孫文左衛門が、内藤藩の大庄屋に任命され、代々勤めた。
大庄屋として
 森忠政が、初めて領国を巡回した時小左衛門と父助右衛門が召されて、岩屋城攻めの話をしたという『大庄屋由緒調』。文化10年(1813)12月2日伊能忠敬の測量隊が止宿した。

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作州忍者鶴山隊結成一周年記念事業

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 2020年2月22日の午前中は生憎の雨模様となりましたが、午後からは雨も止んで甲賀、伊賀、近江、美濃等の国から友軍の参加を得て「作州忍者鶴山隊結成一周年記念事業」が執り行われました。午前の部には、あべ俊子衆議院議員がくノ一忍者姿で現れるサプライズもあり一段と盛り上がりました。

 「津山城に忍者、・・・・・・・と思いし行動開始したのが平成最後の年、31年2月22日(ニン・ニンじゃ)津山城にて5名の有志によりスタートし、忍者は " 学び " から原点に おくにじまん研究会長 藤木靖史さんによる津山城の魅力発見学習をはじめ、6月15日郷土史家 山田美那子先生の学習会を皮切りに元郷博物館館長 尾島治さま講師による学習会を毎月行って来ました。また、令和2年1月25日には忍者研究の一人者 三重大学の山田雄司教授の来津して頂き懇親、 激励等頂学習を重ねてまいりました。これからも活動を続け全国に鶴山隊や津山の魅力を発信したい。」と河部隊長です。

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作州忍者「鶴山隊」(つるやまたい)

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 津山城に忍者、・・・・・・・と思いし行動開始したのが平成最後の年、31年2月22日(ニン・ニンじゃ) 津山城にて5名の有志によりスタートし、隊員同士の活動も徐々に組織的行動に移ることが出来、昨年4月8日津山城本丸にて忍者迷路中心に姫路、徳島、香川拠点に活動する忍者会の協力もえて公開演技、エフエム津山での生放送などの他県南テレビ局の取材なども頂き、広く作州忍者鶴山隊を紹介の機会も効して津山城観光の一助となったことに自信を頂きました。
 又、忍者は「学び」から原点に おくにじまん研究会長 藤木靖史さんによる津山城の魅力発見学習をはじめ、6月15日郷土史家 山田美那子先生の学習会を皮切りに元郷博物館館長 尾島 治さま講師による学習会を毎月行ってきました。
 基本は森家に繋がりのある点では、津山城内、衆楽園、本源寺、徳守神社等の現地学習はじめ西、東公民館を使用しての学習会、そして外部活動としてはお隣の「勝央金時まつり」等地域活動の一環として紹介、展示ブースを設けるとともに手裏剣体験コーナーを設けるとともに「くノ一」による「チャンバラごっこ」は子供たちに隊人気でとても好評でした。
作州忍者の広報活動としての一環として「ダンスチームベリーズ」オリジナル忍者ダンスも鶴山での初ステージに始まり勝北ふるさとまつり先般のB1グルメ明石大会等に出演し作州忍者鶴山隊の盛り上げに努めて頂いています。
 今後は、令和2年2月22日作州忍者 鶴山隊創設一周年事業に向けて具体的な行動計画を皆様とご一緒に立てながら広く市民にも親しまれる作州忍者鶴山隊としての活動に皆様と共に邁進させて頂きたいと思いますので各皆様方の一層のご尽力賜れますようお願い致します。             
                        令和2年1月吉日 作州忍者鶴山隊隊長 克丸

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出雲街道 坪井宿

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坪井宿(別名「麦飯町」とも呼ぶ)
 坪井の町は、津山から西へ3里(12㎞)北は国道181号線、南は七森川に挟まれた静かな町で、今も昔をしのぶ家並みが残っています。
◎坪井宿場の成り立ち
 中世から戦乱により、天正7年(1579)河本城(構の城)が落城、続いて岩屋城も天正18年(1590)野火により廃城となり多くの武将・家臣団の帰農が始まり付近に居を構えた。これが集落の始まりではないかと言われている。集落は、久米川沿いの山根市場、後坪井、薬師堂一帯に作られたという。(故安藤貞郎氏が成人大学で受講記録より)
 また、元亀元年(1570)・承応3年(1654)・延宝元年(1673)・延宝8年(1680)・元禄15年(1702)・放映4年(1707)と美作地方に、暴風雨・大洪水が6回あったと記録されており、久米川も大洪水となり、山根市場、後坪井、薬師堂一帯が流失、その後住民は現在の坪井に移住したと伝えられている。

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「徳守神社の令和初めの秋祭り 徳守大祭」宵宮

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 2019年10月26日「徳守神社の令和初めの秋祭り 徳守大祭」宵宮の様子です。
だんじり出動数は13台。この日は途中から雨が降りだして心配しましたが、夕刻にはなんとか止んで無事「だんじり宮入祓」も行われました。その後、だんじりは次々と商店街や市内を「そ~やれ!」と威勢の良い声で練り歩きました。

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