三穂神社(奈義町)

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念願を自から果たした神 (「さんぶたろう」伝説発祥の地)
こうべさま由来
 この神域は正貴山と呼ぶ古来の原生林にして1名のこうべ様の名によって往古から美作東北部より因幡路にまたがり広くの民衆の信仰を集めて著名である。 
 別の名を三穂神社と称えるがその三穂の語源ならびに読みにつき諸説さまざまにして詳らかなる定説がない。
 この宮の主神は出雲神族の大国主之命の御子事代主之命であり併せて菅原道真の裔三穂太郎満祐の頭部を後に合祀されている。 (2015年11月20日撮影)

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 三穂太郎は蛇女房の母から生れ藤原時代の末期ごろ或いは蒙古来寇の頃に在世して広くこの地方に風雲を席捲し飛仙の妖術をほしいままともした智勇文武の巨像としての伝説の主にして歿後その頭をこの宮に祭られたために一層この神社の名声が高い。
  満祐は菅公13世孫と言われ美作菅家の祖名木山城主居を名木山頂あるいは中腹の深山に構えたなど伝えられ東作誌上関本村の記載に或るとき盗人によって釜が持ち去られようとした矢先を大雨に阻まれてこの宮の直前の田に捨て去ったために以後ここに釜田なる地名を残して現在に至る旨が述べられておりこの事によって更に想像を膨らませば此の社叢の一隅に三穂太郎の苫屋が設けられていたとの想像さえあながち左程の飛躍と言い難い。
 そもそも那岐山頂に設けられた大明神はの後に麓の数社に分杞され其の一社がここ正貴山に斎かれたことは信じるほかはない。 

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 三穂太郎の活躍は今から凡そ七百八十三年前のことにして北朝元号天福二年齢五十二歳の歿に至る生涯とされ、東作誌に其の名え因む伝承の幾多を地形地物の上に残した多彩ぶりの列挙はこれを省くが斯様に広汎なる影を落とす存在であったことは優に伝説の次元を超え偉大きわまる残像としての畏敬から神とされたゆえんであろう。
 境内の裾に太郎の母素を象徴す老藤が見せる蜷局の姿態は恰も昇龍の幻想を呼び累代の氏子は言い伝えて五代三穂の藤と呼ぶ。
  さらに拝殿正面の御拝を仰ぐとき降り懸魚あるべきところに木彫の龍が犇と握るものは蛇身に帰って了った母に代って愛児太郎養育のため舐めさせる光あえかなる玉を示すものでこの宮は古来改築の都度この龍を敢然と守り続けてきた伝承がありこれは遠い未来の涯まで受け継がれるであろう。
 蛇女房にまつわる説話など凡そ二十有余県に散在すると言われ巨人伝また少なくないないが総じて為し得る以上のことを成し遂げれば必ずや其の人をさも巨大体躯の主でもあったように美化されるのは常にして三穂太郎もまたこうした伝承の中に永遠に生きるであろう。
 この宮の下の小流を袖もぎ川とも呼び太郎ゆかりのロマンが諸書に散見され移りゆく星霜の彼方にもあやうくも風化を免れてきた秘話をささやくよすがとして此のせせらぎを幾いつまでも守り続けつつ太郎の郷愁をこの川この森に誘いつづけたい。
昭和63年6月
76歳 鈴木武夫
67歳 前原英之
撰書 (文:社務所に掲げてある由緒書きより)

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三穂神社由緒(文:案内板より)
祭神 事代主の命(えびす様)
西暦1180年頃(平安時代後期) 島根の美保神社祭神事
代主の命の分祀茲正貴山に創建する農漁業の守護神
祭神 三穂太郎満佐
菅原道真公の第12代後胤にして西暦1234年(天福2年52才歿)
歿後直ちに茲正貴山氏神に合祀す美作守りとなり此の地方一帯の文武政治を司る。頭の神
縁結び及び勉強進学の神
三穂神社奉賛会

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神社境内

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拝殿

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本殿

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拝殿に掲げてある額

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社務所と絵馬

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末社神

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本殿の裏を登ると・・・。