津山弥生の里文化財センター 企画展・ミニ企画展

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 2024年7月16日の小雨煙る中、津山市沼にある津山弥生の里文化財センターに伺いました。目的は、埋蔵文化財発掘調査速報展 津山の歴史を掘る「企画展 土で作られた生き物たち」です。
 「発掘調査で最もたくさん見つかる遺物は、土で作られたもの(土製品)です。土製品のなかには、ちょっと変わったものもあります。今回の展示では、生き物が表現されている土製品を集めました。」との説明が書かれてありましたので紹介してみます。
 また、今回の企画展は、市内中学校の職場体験学習の一環で、展示物を収蔵庫から出して、展示物を見やすくするための台を作る作業を中道中学校、展示物をケースに入れて、解説パネルを掲示する作業を津山東中学校の生徒が担当され、それぞれ丁寧な作業をしてくれたそうです。

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津山弥生の里文化財センター

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埋蔵文化財発掘調査速報展 津山の歴史を掘る「企画展 土で作られた生き物たち」

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鶏(動物埴輪)日上畝山58号墳         鳥(鳥形瓶)糘山4号墳

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鶴(鬼瓦の一部)津山城跡            亀(土瓶の蓋)津山城跡

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馬(土馬)
 馬は、古代になると数も増え、有力者のみが手にできる高級品ではなく、荷を運ぶなど人々の生活に身近な生き物になります。
 土馬は、おもに水辺の祭祀で使用されました。都では厄や穢れを祓い、無病息災を願う大祓の際に土人形などと一緒に溝に流されたようです。
 土馬には鞍や轡(くつわ)、手綱(たづな)など馬具がしっかり付けられた飾馬と、馬具がついてない、あるいは手綱のみがつけられている裸馬の2種類があります。
 紫保井遺跡の土馬は、鞍の痕跡と鞍を固定する尻繋(しりがい)を表現した線刻(せんこく)があることから飾馬です。美作国府跡の土馬には手綱が粘土で貼り付けてあります。宮尾遺跡の土馬は、首に線刻があるので手綱の表現の可能性があります。尻?の方はしっぽが垂れ下がっています。

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瓢箪(壺形土器)
 植物の瓢箪の形をした弥生時代の壺です。瓢壺(ひさごつぼ)とも呼ばれます。上の段に1つ、下の段に2つある丸孔(あな)は、土器が焼きあがった後に開けられています。
胴がくびれ、孔が開いているため、物を貯蔵するという壺本来の使い方が難しい土器です。
 何を貯蔵したしたのか、貯蔵目的ではなく観賞用ではないかなど、どんな使い方をしていたのかを考えさせられます。

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人の顔(分銅形土製品)
 弥生時代の岡山県を中心に流行した土製品です。人の顔や、体が表現されています。展示品は、粘土を貼りつけられていた痕跡が残っていることから、目と鼻があったと推測されます。
 分銅形とあるけれど、理科の実験で使っていたものと形が違うと思われるかもしれません。実は現在の分銅ではなく、江戸時代に両替商等で使われていた分銅に似た形をしています。この形は、当時の両替商の看板に使われており、現在も銀行の地図記号として使われています。

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馬 鼻と轡(動物埴輪)日上畝山69号墳     鯱(しゃち)鰓(えら)(鯱瓦の一部)津山城跡

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鶴(鬼瓦)
 鶴は、最初の津山藩主である森家の家紋に登場する生き物です。津山城では、鬼瓦などの特別な瓦に家紋を付けていたようです。展示品は鬼瓦に付けられた鶴の一部です。左を向き、閉じた嘴(くちばし)とまん丸の目が確認できます。家紋付きの物は藩主の家の交代に合わせて替えられるため、前藩主の森家の家紋付きの物はほとんど残っていません。鬼瓦の出土は、かけらでも珍しいことです。
鯱(鯱瓦)
 屋根に飾られるしゃちほこの鯱(しゃち)です。発掘調査では、一部のみが出土しており、全体の姿はわかりません。鱗(うろこ)は古いものは1枚ずつ粘土を貼りつけて表現されますが、新しいものはスタンプを押して表現されています。顔が鬼っぽいものや面長のものなど複数種類あるので、全体の姿も様々だったのではないかと憶測されます。

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さかな(軒平瓦)津山城跡            兎(軒平瓦)津山城跡


ミニ企画展「土人形と備前焼」(11月初旬まで)

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 備前焼の花器等を6点、民芸品の人形を5点(津山ねり天神、十三参り、福むすび、侍童子、守り猿)展示しています。

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津山ねり天神(泥天神)
 学問の神様といわれる菅原道真公がモデルの「津山ねり天神」は、男児誕生の初節句の雛人形として、また進学・就職祈願等の縁起贈り物として作られている、全て手作りの民芸品です。
 菅原道真は、美男で頭が良く、学問、歌、書に優れており、そのように成長して欲しいという願いがこめられています。
 作州では、旧暦の3月3日に天神様をまつる男の子の雛祭りの風習があります。
 ねり天神は、泥を固めただけで焼いていません。なぜなら、古くなったり壊れたりした人形は、川に流し、自然の土にかえるように、焼き物にしないという風習があるからです。
「守り猿」の由来
「今昔物語」と「宇治拾遺物語」に収録された説話の中に、美作国中山の猿神退治の話があります。
 毎年のこと、美しい生娘が指命されて、身の丈八尺もある大猿に、生贄として備へられる掟になっていました。
 その年の祭に名ざしされた娘がいて、一家の者は毎日嘆き悲しんで居ました。
 丁度その頃、東国の方から、勇ましい若い荒武者がやって来て、この話を聞き、哀れに思って自分が娘に変わり犬二匹と一緒に長櫃に入り、備への場所に運ばれました。
 大猿がやって来て、長櫃の蓋を開けるやいなや、犬と共におどり出て、刀を頭につきつけたところ、猿は手を合わせて助を求め「あやまりて、子孫のすへ々に至る迄で、我、守りとならん」と誓いましたので、国は平和になったと、語り伝へられています。
 現在、津山市一宮に至る中山神社(通称一宮様)の奥に崖があり、その磐座の上に猿宮として祭られ子育ての神として、祠一パイに猿の玩具が奉納されています。

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備前焼

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備前焼

(文:津山弥生の里文化財センター掲示物より転載)(2024年7月16日撮影)