洋学資料館令和4年度前期企画展「津山洋学の名品展」

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 只今、洋学資料館では、令和4年度前期企画展「津山洋学の名品展」会期:令和4年3月19日(土)~9月25日(日)が行われています。
 常設展示には並んでいないけれども、津山の蘭学・洋学を語るうえで貴重な資料のほか、異国文化への関心や明治の文明開化を物語る興味深い資料などを、いくつかの小テーマに沿ってご紹介します。
 主な展示資料...ペリー来航絵巻、開成学校開業式之図、オランダ王国総領事館旧蔵のヒンデローペン装飾缶など約35点(津山洋学資料館)

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浮世絵に見る異国情緒
■1859(安政6)年に開港して以降の横浜では、来日した外国人の生活や風俗、舶来の品物など、当時の日本人が興味を持った事柄を描いた浮世絵が多く作られるようになります。これらは「横浜絵(よこはまえ)」と呼ばれ、明治時代まで人々に楽しまれました。
■横浜絵の特徴は、異国情緒にありますが、これに影響を与えたものとして、それ以前の貿易港・長崎で生まれた「長崎絵(ながさきえ)」(長崎版画)があります。横浜絵は、長崎絵とともに、当時の対外交渉を知るうえで重要な資料です。
■絵師としては、歌川国芳(くによし)門下の歌川芳虎(よしとら)、歌川芳幾(よしいく)、歌川芳富(よしとみ)、歌川芳豊(よしとよ)らが代表的で、ほかにもこの時期の多くの浮世絵師が江戸から横浜に赴き、筆をとっています。

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オランダ人の会食風景              傘をさすフランス人女性・馬に乗るアメリカ人

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オランダ人と中国人・ロシア人とイギリス人    銃を持つイギリス人・獅子舞を見物する外国人

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壁の張り紙に記された広告文・掛軸に記された広告文    東大の前身の学校の開業式

浮世絵に見る文明開化
■明治時代の日本は、西洋文化を積極的に取り入れ、それに伴って制度や習慣が大きく変化しました。この近代化現象は、「文明開化(ぶんめいかいか)」と呼ばれ、その様子をテーマとした「開化絵(かいかえ)」が描かれるようになります。
■江戸時代の文化ではない洋装・洋髪の人々や、お雇い外国人が設計・指導した洋風建築、石橋や鉄橋、蒸気機関車・鉄道場車・蒸気船、ガス灯や電灯などの開化風物が、遠近法などの洋風表現を取り入れて描かれました。
■幕末から描かれていた横浜絵は明治時代後期にはほとんど見られなくなりますが、その技術は開化絵に継承されました。文明開化の熱がさめてくると、明治時代の浮世絵文化も廃れていきました。

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オランダの伝統絵付けヒンデローペン

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■「ヒンデ(ダ)ローペン」は、発祥地のオランダの町名に由来し、シックな色使いとデザインが特徴の絵付けです。ヒンデローペンには、有能な工芸人が多く住んでいました。
■17世紀末、ヒンデローペンの人々は彫刻に絵付けを始め、18世紀初めには、家具を豪華に見せるために色付き下地を始めます。また中国陶器をまねるなど、世界の芸術と融合させながら、独特の絵付けを発達させました。
■19世紀に戦争でヒンデローペンの町は衰退し、人々が生計を立てようと家具を売却したため、古い芸術品が失われてしまいます。しかし、1800年代末、装飾家具の展示会が行われたことで、ヒンデローペンの魅力が再評価され、その技術が復活しました。

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ヒンデローペン装飾缶(オランダ王国総領事館 旧蔵)年未詳
 ヒンデローペンが描かれた大きな缶で、高さが75㎝もあります。主なモチーフは花とカール模様です。2016年に在オランダ王国総領事館ローデリック・ウォルス総領事がご来館され、寄贈してくださいました。

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蒸気船の側面を描いた図 異国船渡来之図 上

描かれた黒船来航
■1853(嘉永6)年6月にアメリカの東インド艦隊司令長官・ペリーが国書を携えて浦賀に来航します。その国書は、津山藩医の箕作阮甫(みつくりげんぽ)・宇田川興斎(うだがわこうさい)らによって翻訳されました。
■アメリカのペリー派遣を知ったロシアからは、7月に海軍中将・プチャーチンが長崎に来航します。黒く塗装された欧米の軍艦は「黒船」と呼ばれ、恐れられましたが、やがて恐怖心は興味へと変わっていきました。
■各藩から偵察員が出され、黒船の様子が絵に記録されると、複数の場面をつなぎ合わせた絵巻物が作られ、写しで各地に似た絵の巻物が伝わることになります。津山藩では、洋学者の箕作秋坪(しゅうへい)と興斎、絵師の鍬形赤子(くわがたせきし)が黒船を偵察し、黒船の遠景図を描き残しました。

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日本側が見たペリーの久里浜上陸 ペリー来航絵図 箕作秋坪 編 1853(嘉永6)年

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同じ景色や場所を見て描かれたそれぞれの絵図

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描かれたロシア船                久里浜に上陸するペリー一行

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東京上野周辺を描いた図

蘭学者の明治維新
■1868(明治元)年、江戸幕府に代わって明治政府が誕生します。新政府は西洋の国々にならって、政治や社会の仕組みを見直し、近代国家に生まれ変わるための改革を推し進めていきました。この近代国家への道のりは、「明治維新(めいじいしん)」と呼ばれています。
■明治維新の流れに呼応して蘭学者も活動の幅を広げていきました。箕作秋坪は政府からの出仕の求めを断り、津山藩邸の一角で、私塾・三叉学舎(さんさがくしゃ)を開きます。原書で英語を教授し、漢学や数学も教えました。
■秋坪が維新後に全ての公職から身を引いた背景には、反政府同盟の奥羽越列藩(おおうえつれっぱん)同盟の精神的主柱となった仙台藩の儒学者・大槻盤渓(おおつきばんけい)の動向も影響を与えたように思われます。

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疱瘡神の謝罪文 作者不詳 997(長徳3)年5月(梶村家資料)
疱瘡神五人相渡シ申誤証文事(ほうそうしんごにんあいわたしもうすあやまりしょうもんのこと)
 江戸時代の疱瘡除けのまじない札で、平安時代に出された詫び証文の形をとります。疱瘡神(天然痘を擬人化した悪神)は、病状ごとに5柱に分かれており、この紙が貼ってある家には近づきません、と連名で約束しています。

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病魔を撃退した源氏の武将            病魔を撃退した中国の人物

魔除けのおまじない
■疱瘡(ほうそう)(天然痘)(てんねんとう)除けのまじないとして描かれた絵を「疱瘡絵」といいます。疱瘡は、天然痘ウイルスによる致死率の高い感染症で、飛沫や接触を介して広がっていきます。
■疱瘡絵は疱瘡にかからないようにと祈りを込めて、家に張ったり、患者の枕元に置いたりして護符がわりに用いられました。回復後は疱瘡絵を焼いたり、川に流したりしたので、現在はほとんど残っていません。
■赤色で刷(す)られている特徴から「赤絵(あかえ)」とも呼ばれますが、赤は魔除けに効果があると信じられていました。また、絵柄にも効力を持たせようとし、疫病も退散させる力を持つと考えられた勇猛な武将が描かれたり、縁起の良い羽子板や桃太郎が描かれたりしました。

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蘭学者のスクラップブック            宇田川 榕菴が筆写した植物図

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蘭学者のスクラップブック

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宇田川 榕菴が筆写した大砲図(文:津山洋学資料館)(2022年3月31日・4月1日撮影)