取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「」で検索した結果,152件の記事が見つかりました。

神実山 慈恩寺(大字桑下)旧久米町

jion13.jpg
 当慈恩寺の所在する桑下村は延享4(1747)年、相州小田原藩大久保氏の領有となり、文化10(1813)年までその領有が続くのであるが、その間大久保氏の祈願所となり、大久保氏歴代の位牌が今もまつられている。
 又、某家保存の「美作庄久米北条郡」神実山慈恩寺由緒 の抜き書き によると、此の寺には 石頭山親道寺の前身があり、僧親道が住職として不動明王をまつっていた。此の石頭山親道寺を貞観2(860)年に慈覚大師が神實山慈恩寺として開基したものと解釈出来る一節がある。それから、天正4(1576)年江原兵庫助、同又四郎が本堂を再建した事情について次の様に書かれている。

神実山 慈恩寺(大字桑下)旧久米町の続きを読む

岩滝様と腰淵様(油木北)旧久米町

iwataki1.jpg

 油木北の岩滝様も巨岩崇拝に基づく神様で、此の地方は、弥生時代の集落址・土拡墓群、数々の古墳のあることからして、弥生時代から古墳時代、奈良平安時代へと、人里の栄えた地域で、小範囲の地域に巨岩の何個もが集まっている岩滝様のあたりは、磐境とか磐座と見立てるに恰好の条件を備えていて、神宿る聖域として祭祀が行われており、時代が降って、瀬織津姫(せおりつひめ)の神を祭神とする岩滝様が祀られるようになった。

岩滝様と腰淵様(油木北)旧久米町の続きを読む

鶴坂神社(坪井下字鶴坂)

tsuru22.jpg

鶴坂神社(大字坪井下字鶴坂1577番地)  2014年9月19日取材
 往古より久米郡北部の産土神として美作國百十二社の一つで、大井庄、中北下村三ッ高山の山上に鎮座し、吉村宮と高の村宮の二神が祀られていた。社殿も壮厳で霊験も顕著であったので元暦年間(1184-1185)梶原氏は此の社を崇敬し武達長久の祈願の為寄進する。それ以後天下が源氏の下におかれてからの國主・領主の崇敬が続き寄進奉幣は常に絶えなかったと云われている。当社恒例の大祭には苫田郡小田草の神輿も参加するのが例となっていて、毎年四月の牛の市もにぎやかであったということである。

鶴坂神社(坪井下字鶴坂)の続きを読む

日吉神社(宮部上)

hiyoshi5.jpg

日吉神社 大字宮部上
 此の社の由緒は拝殿の額によると、祭神は大山紙神で、嘉吉年間、山名教清が岩屋城を築くに当たり、その部将を派して此の地に城塞を築き、近江の国坂本から山王権現の分霊を勧請して守護神としたのが此の宮の起元である。その後兵乱により城塞は失われ此の神社のみが山上に残っていたものを、江戸中期に至って此の地方の人が之を山麓に移し、本社にならい「日吉神社」と改めて今日に至ったものである。本社は元、官幣大社日吉大社で、全国3796の分霊社の一つであるというのである。

日吉神社(宮部上)の続きを読む

「モビルスーツ特別搭乗会」が開催されました。

11.jpg

2015年8月15日(土)・16日(日)9:30〜15:30に道の駅「久米の里」で 「モビルスーツ特別搭乗会」が開催されました。今回は晴れの国おかやまデスティネーションキャンペーン開催を記念して、両日とも120組を限定して特別に実施されたそうです。

 炎天下でも子どもたちは元気いっぱい!でしたが、ご父兄の方々も興味津々で写真を撮られてご満悦そうでした。夏休みの思い出ができて良かったですね。

「モビルスーツ特別搭乗会」が開催されました。の続きを読む

国指定史跡 三成(さんなり)古墳(大字中北下)旧久米町

san23.jpg

三成古墳の復元整備について
 三成古墳は、昭和53年に行われた発掘調査によって、美作地方の古墳としては、例がすくなく貴重なものであることがわかりました。このことから昭和54年10月、国の史跡指定を受け、史跡内用地を買収し、国および県の補助により57年度に復元整備を行いました。
復元計測によって得られた数値をもとに墳丘を復元し、地中より発見された石棺は埋め戻して、地上に同じ材質の模型をつくりました。また、あわせて説明板や標柱、歩道などを設置し見学の便宜をはかっています。

国指定史跡 三成(さんなり)古墳(大字中北下)旧久米町の続きを読む

寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町

mitsu2.jpg
 寺院の縁起と開山
 真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
 伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
 その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
 中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。

寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町の続きを読む

坪井山 称念寺(大字坪井下)旧久米町

hondou.jpg

 本寺は九品山来迎寺となっているけれ共、現在は京都の知恩院の直末である。
 元、此の寺は此の地の大庄屋福本小左衛門が自分の所有地のうち、現在称念寺のある位置に独力で小庵を建立した。時は慶長7(1602)年で、坪称庵と称した。其の後荒廃し寛永3(1626)年、福本小左衛門は独力でこの坪称庵を再建した。それから少時たった寛永9(1633)年10月22日、石州浜田生まれの道誉雲西という道心者が此の坪称庵に入って住職的な役割りをすることとなった。道誉雲西は正式な僧侶ではなく、俗人であり乍ら仏道修行に熱中した人であるが、これをもって開山と見ることもできる。

坪井山 称念寺(大字坪井下)旧久米町の続きを読む

梅の里公園近くのアジサイの花(神代)

u14.jpg

神代(こおじろう)の梅の里公園すぐ近くに植えてあるアジサイの花が可愛い!
梅の里公園を旭町の方へ向かって行くとすぐに道端の両脇に可愛ピンク色の紫陽花が咲いております。毎年、アジサイの花が咲くころにはこの道を思わず通ってしまいます。丹精込められた色とりどりの紫陽花(アジサイ)の花が通られる人を癒してくれます。(取材2015年6月28日)

梅の里公園近くのアジサイの花(神代)の続きを読む

青長山 大法寺(大字久米川南)

daihouji1.jpg

 当山は慶長の昔、伯耆大山の人、理性が仏道修行のため諸國行脚の途次、此の地を通り一小堂で休憩した。此の堂は現在大法寺のある場所にあったもので、本尊は弘法大師であった。理性は何心なく堂内を見まわすに、兵乱の影響を受けて、本来仏法弘道の霊場であるはずのものが時には野武士の棲み家ともなってひどく荒らされていた。理性は此の有様を見て大いになげき、是非共之を再興しなければならぬと固く心に誓い、村の人達に相談をもちかけ、自分も此の地に仮住居して滞在することとした。
 最初の程は半信半疑であった土地の人達も道心堅固な理性に敬服して段々と協力者がふえて遂に一宇の寺院を建立するに到った。即ち慶長19(1614)年、時の美作國の領主森忠政の允許を得て「静長山大宝寺」と号し真言宗に属した。

青長山 大法寺(大字久米川南)の続きを読む