里公文(地域別/津山市/久米地域)

美作の大庄屋巡り「福山家 浜田藩(鶴田藩)」

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福山家 福山元太郎 久米北上郡里公文中村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
 福山家の出自は明らかでない。享保2年(1717)高津神社の棟札に庄屋福山彦兵衛、天明5年(1785)中庄屋彦兵衛、寛政2年(1790)彦兵衛、文化4年(1807)中庄屋周蔵の名があり、中庄屋、庄屋を勤めていたことがわかる。天保7年(1836)久米北条郡17か村が石見国浜田藩の飛地になったとき、福山元太郎が和田北村の富田伊兵衛とともに大庄屋に任命された。
大庄屋として 
 第2次長州戦争で敗れ、城をすてた浜田藩は、慶応3年(1867)藩主が福山家に移り、鶴田藩と藩名を改めた。明治4年に桑下に西御殿ができるまで福山家は藩主の邸宅であった。

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江部山 善福寺(大字里公文)旧久米町

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 作陽誌によると、昔、此のあたりに住んでいた肩野部氏の家に強盗が入り、肩野部氏は強盗により深手をおい再起不能となった。そこで、肩野部氏は妻に対して、「自分は命をとりとめることはとうてい出来ない。おまへは未だ歳も若いのだから、自分の死後は、やもめ暮らしをすることなく新しく夫を持って幸福にくらしてくれ。」と申し渡した。之に対して妻の曰く、「あなたが此の様な災難に遭ったのは天命であり、私が若くして夫に別れるのも亦(また)天命です。今後私のとるべき道は只一つ、天命に随(したが)うことで、それ以外に道はありません」と、早速に自分で髪を斬って再婚の意志の無いことを示した。そして夫の死後は尼となり、居宅を捨てて寺とした。善福寺がこれである。(取材2014年9月18日)

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西御殿跡(里公文)

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西御殿
 神代の十字路からも備前街道は県道に添うてはいるが間に田地をはさんだ左側の山裾の道であって此の道は柄尾谷池に差しかかって始めて右折して県道に吸収されて池畔を進めば、池土堤の右側に貴布祢神社の裏鳥居がある。
 鳥居の前をすぎて県道が右に曲がるあたりの左向うに「西御殿」がある。立派な石垣がめぐらされていて、正面の石段を登ればそこは広い屋敷跡「殉難碑」が建てられており、久米町の重要文化財に指定されている。

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高津神社(大字里公文)旧久米町

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高津神社 大字里公文字葉山

 祭神は大日霊貴命で、配祀は倉稲魂命・奥津彦命・奥津姫命・軻遇突智神・天目一箇神・天香々背男神・素盞鳴命・大山祇命・月読尊・級長津彦命・級長戸辺命・蛭児命・保食神祭日は、例祭10月17日、祈年祭2月23日、新嘗祭11月14日、挿秧祭5月1日
神号は、文化2年(1805)から「高津大神宮」と唱え、明治維新後「高津神社」となって今日に及んでいる。

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