美作の国 [歴史]

[歴史]
 古代から江戸時代に至る岡山県北東部の行政区画、東は播磨、西は備中、南は備前、北は因幡、伯耆の諸国に接する。「続日本記」和銅6年(713)4月3日の条に、備前国の、英多、勝田、苫田、久米、大庭、真嶋(島)の6郡を割いて、初めて美作国を置いたとある。美作は、「和名抄」では、<美萬佐加>と読む。国衙(こくが)は苫田郡(とまだ)内(現津山市総社)、国分寺は勝田郡(現津山市国分寺)に置かれた。863年(貞観5)苫田郡を苫西、苫東と分割する。奈良時代の終わりから平安、鎌倉時代にかけて多くの荘園が成立した。神護寺領佐良庄をはじめ、稲岡庄、梶並庄、倭文庄(しとりの)、河内庄、英多保、林野保、真島庄などが有名。武士団としては"菅家党"が有名。平安末期には稲岡庄で法然が誕生した。

 鎌倉時代の守護職は院庄(現津山市院庄)に置かれ、初代の守護として梶原景時が任命された。その後、和田義盛を経て、鎌倉後期の守護は北条一門に独占された。承久の乱(1221)後、新補地頭が配置され、渋谷氏のように東国武士の移動もあった。また、北条氏の一門足利氏の進出が著しく、新野保、大原保、田邑庄(たむら)などは、その支配を受けた。南北朝時代には、菅家党「南三郷党(みさと)」など、在地武士の活躍が目覚しく、やがて、山陰の守護山名氏と播磨の守護赤松氏の抗争が続き、赤松政則の守護時代が続いた。

 在地の国人は守護の被官となって荘園の侵略を行い、在地領主としての地位を確立して行ったが、なかでも、作東の後藤氏は三星城に拠って作西の三浦氏は高田城によって頭角をあらわした。商業では大原市、林野市、戸川市などが繁栄し、割符(さいふ)による取引が行われた。作西の高田庄から臨済宗の「寂室元光」が誕生した。この期に苫西(西四条)、苫南(西北条)、苫東(東南条)、苫北(東北条)、吉野の5郡が分割されて成立し、群称は江戸時代に引き継がれた。

 戦国時代には備前の浦上氏、山陰の尼子氏が進出し、やがて安芸の毛利氏、備前の宇喜多氏に変わった。在地の戦国領主三浦氏も後藤氏も、彼らのために滅亡した。1582年(天正10)備中高松城落城ののち、毛利氏と宇喜多氏の和解が成立。美作は羽柴秀吉に従っていた宇喜多秀家の支配下に入った。1600年(慶長5)関が原の合戦により宇喜多家は没落し、美作国は小早川秀秋に与えられた。

 1602年(慶長7)小早川家は断絶、1603年(慶長8)2月「森忠政」が入国し、美作国全土18万6,500石を領有し、国主となった。津山藩の成立である。忠政は鶴山城を築き、津山城下町を形成し、国内総地検を行って、近世的支配の基礎を確立した。1697年(元禄10)「森氏」は後嗣(こうじ)の無いために断絶し、翌年「松平宣富(のぶとみ)」が入封、津山10万石の藩主となった。残りは多く幕領となったが、一部は甲府領、挙母領となった。1727年(享保12)津山領は5万石に半減され、幕領をはじめ館林領、丹羽領、乃井領、因幡領、小田原領、土浦領、竜野領、仙石領、古河領、関宿領、佐倉領、岩村領、明石領、井原領などが幕末までに成立した。

 1764年(明和元)「三浦明次」が真島郡に入封し、2万3000石の真島藩(勝山藩)が成立した。1817年(文化14)津山藩は、将軍家斉(いえなり)の子「銀之助」を養子に迎え、10万石に復帰した。1867年(慶応3)第2次征長出兵で敗北した石見国浜田藩主が久米北条郡内に入り、鶴田藩(たずた)藩を興した。

 美作では、このとき3藩の成立を見た。元禄以降、明治初年にかけて幕藩体制の矛盾が顕著となり、百姓一揆が頻発した。高倉騒動、山中一揆、勝北非人騒動、改政一揆、鶴田騒動などが有名である。また、津山を中心とした洋学も盛んとなり、宇田川、箕作(みつりく)両家の洋学が栄えた。1871年(明治4)廃藩置県によって、津山、鶴田、真島、倉敷、沼田、古河、豊岡、挙母、明石、竜野の10県の管轄下となり、同年11月北条県に統括された。

 美作国の行政区画はこれ以来廃止され、その後は旧称としてのこった。江戸時代を通じて生産の中心は米穀であるが、中国山地の鉄、牛、木地、紙の生産も行われた。旭川、吉井川の二大河川では高瀬舟による物資の輸送が行われた。→英田郡→勝田郡→苫田郡→久米郡→真島郡→大庭郡→津山藩→森氏→松平氏(津山)→勝山藩→三浦氏→鶴田藩→北条県→三星城→浦上氏→宇喜多氏→山中一揆→菅家党→法然→後藤氏→佐良庄→稲岡庄→梶並庄→倭文庄→河内庄→英多保→林野保→真島庄→梶原景時→赤松氏→寂室元光→高倉騒動→勝北非人騒動→鶴田騒動→岡山の洋学。
[地誌]
 北に中国山地、南に吉備高原を控え、その間に津山や落合、久世などの盆地が位置する地形的に統一された広がりを持つ地域である。中国山地に源を発する吉井川、旭川の本支流は、山地や高原を開拓し、平野をうるおしながら南流して瀬戸内海へ注いでいる。気候は全般的に瀬戸内気候に類似しているが、年間を通じて県南よりも気温が低く、降水量は多い。特に山間部においてはこの差が大きく、冬季は寒冷で積雪も多い。また、那岐山山麓では局地風として「広戸風」があり、時として農産物に大きな被害をもたらす。古代美作の産業は、「延喜式」によると米のほかに綿、絹、紙、豆、油、苫(とま)、鹿皮、鍬(くわ)、鉄などが上げられており、明治初期まで重要産物であったが、現在は米のほかはほとんど見ることが出来ない。

 現在の産業構造は、第一次産業、とりわけ農業の比率が高い。従来は米作を中心に養蚕や役牛飼育を営んでいたが、近年は肉牛や蒜山のジャージーに代表される酪農が発達し、大根、キュウリなどの野菜、ブドウ、桃などの果樹、葉タバコをはじめとする園芸作物の割合が高まっている。また、盆地と中国山地との接触部では、製炭業が盛んであったが、近年燃料の転換により生産は激減した。鉱工業では古くから中国山地の砂鉄を利用した<たたら製鉄>が盛んであったが、近代的製鉄法の導入により急激に衰え、大正初年を境に姿を消した。

 現在はウランが人形峠で、珪藻土(けいそう)が蒜山地方で採掘されている。工業の占める地位は低く、製糸、木材工業など原料と結びついたものが一部にあるにすぎなかった。しかし、1962年(昭和37)に津山地区が「低開発地域工業開発促進法」に基づく地域指定を受けて以来、津山市、勝央町、久世町、落合町に工業団地が造成され、内陸工業地域としての工業誘致が進んでいる。県南との結びつきは、近世以降吉井川、旭川の高瀬舟によって強まった。しかし、1896年(明治31)中国鉄道の開通を境に輸送機関としての役割を失った。

 美作には1979年(昭和54)現在、1市5郡(20町10村)があるが、津山市を除いて大部分の町村は人口が減少しており、山間部では過疎化が進行している。このなかで津山市は、津山、姫新、因美の国鉄3線やバス路線が集中した美作一円を商圏とする商業都市として、また近年には大学も設置され文化都市として名実ともに美作の中心となっている。1,975年(昭和50)10月には中国縦貫自動車道の吹田―落合間181.6kmが開通したため、京阪神との経済的結びつきが強まっている。また、美作三湯として知られる湯原、奥津、湯郷の温泉や蒜山高原などの観光地も、京阪神方面からの観光客が増加している。→津山市→勝央町→久世町→落合町→湯原温泉→奥津温泉→湯郷温泉→広戸風→三坂山。
[菅家党]
 中世美作国東北部に広く分布した武士団。おもに「太平記」にみえる。それによると、<菅家ノ一族><菅家ノ一党>と称され、1333年(元弘3=正慶2)京都の猪熊合戦では<三百余騎>と記され、その主たる武士は有元氏・廣戸氏・福光氏・植月氏・原田氏・鷹取氏・江見氏らである。菅家党成立は、菅原道真の子孫「菅原知頼(ともより)」が美作に下向し、知頼の子孫「満佐(みつすけ)」を祖とするところにあり、満佐の庶流が各地に分居し、同族的結合をしたとされている。

(以上岡山県大百科事典引用)


以上の情報提供は、出雲井隼麻さん(諏訪神社、宮司の末裔)