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取材記事内を検索ワード「森家」で検索した結果,134件の記事が見つかりました。

2023衆楽園のさくら

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 2023年3月24日と28日の衆楽園の桜の花の様子です。
 この衆楽園は、津山藩2代藩主・森長継(ながつぐ)が京都から作庭師を招いて造営された廻遊式庭園で、京都御苑内にある仙洞御所(せんとうごしょ)を模して造られました。庭園内の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。また、森家改易後、長継の側室で継光院殿(お偕の方)と子どもたち(於偕は本光院のほか、森對馬守長俊 関備前守長治、防州徳山藩主毛利飛弾守元次の室となった於千、また良洪院殿(大吉)ら五子の生母)が最後まで住んでいたところです。 継光院はお城の北御屋敷(衆楽園)に住み、子供達の教育に力を注ぎ、自らは禅を学び、文学を愛した才女です。(衆楽園は、ロバート キャンベルさん絶賛のお庭です。

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2022つながる「出雲街道」を歩こう会(最終回)

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 2022年10月23日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第6弾(最終回)として、福力神社附近より津山(津山市役所)までを、東から西へと主催者の「勝間田宿の会」と共催で、「城東まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、記念すべき第6弾の最終回を迎える事が出来ました。
特別企画(第6弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第4区)
福力(福力荒神社附近)~津山(市役所)間7.5km(実質8.0km)
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:城東まちづくり協議会(津山市)、共催:出雲街道勝山宿の会
協力:津山観光ボランティアガイドの会、助成:(一社)中国建設弘済会

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美作の大庄屋「大寺家」(美作市)

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大寺家 大寺三郎左衛門 英田郡土居村 森藩
大庄屋まで
 大寺氏は、鎌倉時代の末から英田保の地頭だった安東氏の一族であるという。安東系譜によれば、寛永年間(1624~1644)に大寺伝右衛門が、大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 寛文4年(1664)伝右衛門の孫三郎左衛門は不都合があったとして大庄屋を罷免され、家屋・所有地をすべて没収されたといわれる。
 その翌年に山外野村の安東三郎兵衛が大庄屋に任命された。

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2

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 津山宿(城下町)
 古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
 街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
 慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
 元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
 元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき

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「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1

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 特別企画(第5弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第5区)
久米(ふれあい学習館)~津山(市役所)間7.0km(実質8.0km)
令和4年(2022)5月15日(日)実施


 今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第5弾として久米(ふれあい学習館)より津山(津山市役所)までを、逆に西から東へと主催「勝間田宿の会」と共催で、「城西まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネッサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、次回10月23日は第6弾(最終回)となります。

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津山郷土博物館企画展示「江戸一目図屏風実物展示」・津山藩松平家に伝わる甲冑「朱漆塗本小札啄木糸威胴丸具足」

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 春はつやまの観光キャンペーンの一環として、津山郷土博物館において企画展示「江戸一目図屏風実物展示」を開催する運びとなりました。江戸一目図屏風は津山藩のお抱え絵師鍬形蕙斎が描いた江戸の鳥瞰図で、今回はその実物を展示します。本屏風は県指定の重要文化財である大変貴重な作品で、今回は平成29年度以来の実物展示になります。また、描かれている視点が、東京スカイツリーからとほぼ同じということで、同展望デッキに複製が展示されていることでも有名です。あわせて蕙斎のほかの作品も展示しておりますので、この機会に蕙斎ワールドをご堪能ください。
 また、先般津山藩松平家に伝わる甲冑「朱漆塗本小札啄木糸威胴丸具足」が岡山県重要文化財の指定を受けましたので、あわせて皆様にご披露させていただきます。江戸時代初期の特徴を残す貴重な甲冑ですので、あわせてご覧下さい。令和4年4月1日 津山郷土博物館

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元禄の道標(鏡野町)

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 百谷浜子の和仁君男氏宅横に、この道標がある。
 往時この地点は交通の分岐点で、川を渡って東へ行く道は、真経を経て、越畑の鉄山へ通じ、真直ぐ北へ行く道は、奥津を経て、伯耆国倉吉へ通じていた。倉吉への道は、作州一円より農業の神美保神社へ詣った所謂(いわゆる)関詣りの道でもあった。
 この道標は、地上高90㎝、幅18㎝の方柱で、正面は草書、裏面は楷書で刻んである。
 正面(南側)―南「是より左伯耆くらよし道」
 裏面(北側)―北「元禄二年己巳年三月日」
 元禄2年(1684)当時作州を領した森家の二代長継公は、交通の要地にこの道標と同規格の道標を設置した。
 元禄の道標で現存しているものは、大原町古町の津山道の道標、作東町杉坂越えの道標及び、久米郡中央町打穴中清水の道標など数基にすぎない。
 元禄2年の道標は、方柱の上端が山形にとがらせてあるのが一般的であるが、浜子のものは上端が平である。これは、もともととがっていたものを後に何かの都合で、平に加工したものと思われる。
(文:『香北ふるさとの伝承』より)(2021年11月3日撮影)

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梅雲院殿(長継側室於つま)・守光院殿(長継乳母)の墓

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2021年3月津山市東一宮にある瑠璃山本光寺に伺いました。
 本光寺は二代藩主長継公が延宝元年(1673)修造し瑠璃山本光寺と改めて和尚を以って開山したお寺である。長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。その長継公には多くの側室がいたが、その内の2人の側室の墓がある。そのひとつが梅雲院殿(於つま)さんである。裏庭の右手を少し上がると立派なお墓が二つ並んで立っています。梅雲院殿のお墓は向かって左側です。右側は、守光院殿(長継乳母)の墓です。
 また、梅雲院殿のお墓は、長継公の母堂菩提寺である小田中の法源山宗永寺にもあり、二人の子どもと共に立っている。同じ津山市に2つのお墓を持った梅雲院殿(於つま)はどんな方だったのでしょうか?

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森大膳亮重政・母親(於竹)の屋敷跡

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 この段が森大膳亮重政君の住居跡だそうです。
住居の跡は、部落から一段と高くなった所にあって、後ろに山をひかえた、かなりの広さをもっていたもののようだ。現在は田となっていて「屋敷」、「屋敷の段」という地名となってのこっている。この屋敷のうしろの山の中腹にみられる古い墓は、供の人達のものであろうと伝えられている。
 森大膳亮重政は、津山藩初代藩主森忠政の長男として文禄二年(1593)、当時忠政が治めていた美濃国(現在の岐阜県)金山で生まれました。第二子という説もありますが、正しくは長男で、側室の子であったことと病弱であったため、相続権はなく、嫡子(ちゃくし)忠広の庶兄として育てられたようです。
 忠政が津山藩主として美作へ来た際には真経に屋敷を構え居住していました。おそらく病身のため藩の任務に就くことが困難で、真経の静かな地で療養をしていたのでしょう。そして、元和四年(1618)にこの地で亡くなります。26歳の若さでした。(2021年9月12日撮影)

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関長治・関政辰墓所(西来寺)

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 関長治は津山藩主森氏の一族(森長継の五男)で、関氏の養子となっている。
 父の森長継は初代津山藩主森忠政の娘の子で外孫である。
忠政は嫡子忠広に先立たれ、外孫である長継を森家の後継ぎとした。長継の実家関氏は森家の家臣で、長継の母は森忠政の娘である。また長継の実父関成次の母は森可成の娘である。

曹洞宗 清瀧山 西来寺 元禄十一年(1698年)
 徳翁良高禅師は、新見藩主関長治に現地を与えられ風木谷にあったと伝えられる西来庵を再興した。禅師は師僧月舟宗胡禅師の遺骨を宇治禅定寺より、開山として迎え自らは二世中興に下った。以降、藩祖関長治、四代長辰の二基を中心とした関家の菩提所となる。(文:現地案内より)

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