梅雲院殿(長継側室於つま)・守光院殿(長継乳母)の墓

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2021年3月津山市東一宮にある瑠璃山本光寺に伺いました。
 本光寺は二代藩主長継公が延宝元年(1673)修造し瑠璃山本光寺と改めて和尚を以って開山したお寺である。長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。その長継公には多くの側室がいたが、その内の2人の側室の墓がある。そのひとつが梅雲院殿(於つま)さんである。裏庭の右手を少し上がると立派なお墓が二つ並んで立っています。梅雲院殿のお墓は向かって左側です。右側は、守光院殿(長継乳母)の墓です。
 また、梅雲院殿のお墓は、長継公の母堂菩提寺である小田中の法源山宗永寺にもあり、二人の子どもと共に立っている。同じ津山市に2つのお墓を持った梅雲院殿(於つま)はどんな方だったのでしょうか?

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長継公の側室於つまのお墓            長継公の乳母のお墓
「長継公の乳母のお墓が立派なのは、長継公の母が早くして亡くなっているので、長継公が慕っていたのではないでしょうか?」と北川住職のお話でした。

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本光寺の裏山の墓地にひっそりと立つ墓石

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広福庵(関長政が作った)

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境内及び前の川の殺生を禁じ、刹竿制石を立て放生池を設いたのも長継です。

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境内                      参道

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津山市指定の銀木犀
本樹は、推定樹齢350年、津山藩主森長継公が禅寺を再興し、開山したときの記念に植えられたものと伝えられている。

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薬師堂                     客殿

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放生池を通って境内に入る。門前に鉾立石がある

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本堂

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裏庭は自然をとり入れた「蓬莱の庭」と呼ばれ造園は衆楽園と同じ長継です。


小田中にある宗永寺内の森長継側室、梅雲院殿(於つま)のお墓

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宗永寺                     森長継側室、梅雲院殿(於つま)の墓

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森長継側室、梅雲院殿(於つま)の墓

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森長継と梅雲院殿(於つま)の息子、吉之助(影幻院殿)

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森長継と梅雲院殿(於つま)の息子、吉之助(影幻院殿)

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森長継と梅雲院殿(於つま)の息子、頼母(陽林院殿)

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森長継と梅雲院殿(於つま)の息子、頼母(陽林院殿)


 瑠璃山本光寺(黄檗宗)は延宝元年(1673)に創建された。伝承によると、古くからこの地に薬師如来が安置されていたが、西暦5年(994)に疫病が諸国に流行したとき、霊験があり、多くの祈願者によって新たに堂宇を建立し、神徳寺になったという。
 それから年移り、薬師如来だけの小堂が残っていた寛文のはじめ、黄檗の木庵禅師の高弟であった鉄堂がこの地に来て、薬師堂のほとりに草庵を結んだ。
 当時の津山藩主、森長継公は鉄堂の道風を慕い、自分の菩提寺(香華院)の建立を思いたち、鉄堂によって寛文8年(1618)下田邑に長綱山千年寺ができた。鉄堂は師の木庵禅師を開山に迎え、自分は二代をついだ。
 長綱公はさらに、鉄堂が草庵を結んでいた地に、本光寺を創建、娘の本光院殿(於鍋)の霊牌をおさめた。時に延宝元年(1673)のことである。鉄堂は弟子の北厳に寺のあとをまかせた。境内及び前の川の殺生を禁じ、山門前に放生池を設け、なかに刹竿制石(旗を立てる石)があり、木庵禅師が中国から持ち帰ったといわれる大きな「銀もくせい」二株もある。薬師堂のうしろに「蓬来の庭」が古いたたずまいを残している。
ここの薬師堂は定朝作という伝承もあり、およそ平安中期ごろから、薬師信仰の地になっていたのではあるまいか。森家系図の一部をここに示しているように、森家改易後、長継公の五男長俊が三日月へ、九男長治が新見へ、十一男の長直は赤穂藩へと分封されたが、本光院と長俊と長治の母於偕の供養地蔵も本光寺につくられ、寺領150石のはか、茶湯料として、新見、三日月両藩から明治廃藩まで10石がおくられている。