作州忍者鶴山隊 2024 国際忍者学会参加報告会と研修会

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 2024年10月26日(土)13:30~15:00 津山城西公民館において、作州忍者鶴山隊の隊長克丸こと 河部克己さんから「2024 国際忍者学会参加報告会」と「甲賀にある津山城」の話を興味深く聞かせていただきました。その後、今年、ともちピンクさんが受験した「甲賀流忍者検定」の資料を頂きましたが、とても難しく検定問題はチンプンカンプンでした。

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研修会の様子

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神庭隊員と隊長                 進行は禿丸こと藤木隊員

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隊員の本山こうじさん              隊長の克丸こと河部克己さん

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国際忍者学会大会のポスター

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吾妻忍者の末裔の演武              地元のニュース

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群馬県の山本知事が挨拶             市役所だそうです。

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市役所への表敬訪問

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第7回国際忍者学会大会の様子

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甲賀流伴党21代目宗家 川上仁一先生

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第7回国際忍者学会大会の様子          懇親会

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懇親会で挨拶する克丸隊長            山田先生と記念撮影

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第二部 甲賀の津山城

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http://mizuki.my.coocan.jp/siga/koukasi03.htm

津山城(甲賀市水口町下山小字細佐)

 津山城は、太谷旧池の西側に位置する台地縁部を利用して築かれている。
 駐車場などはないので太谷旧池の堤の下のわずかな余白に寄せて停めさせていただいた。
 津山城との間には水路が通っていて渡れないので、南側に大きく回り込んでから城址方向にアクセスする。
 城内への登り口は2カ所ほどあり、いずれを通っても2郭の所に出ることになる。そこから土塁を登って行けば1郭に進入することができる。
 津山城で特筆すべきなのは1郭周囲の土塁の高さである、最大で高さ20mほどはある。甲賀の城は高土塁で囲まれた城がいくつも見られるが、土塁の高さが20mほどもあるのは、さすがに珍しい。盛り上げたというよりは、郭部分を掘り下げたのだと思われるのだが、それにしても大変な土木量である。
 その背後には堀切が大きく掘られて台地続きとの間を区画している。
 3郭には池跡のような窪みが見られるが、城内に池を有しているのが甲賀の城の特徴の1つであるようで、この後、いくつかの城で目にすることになった。
 津山城の城主は津山氏であったと伝承されているが、近世初期に伴唯利が備中津山に移住しており、そのことから「津山」の名称が生まれたのではないかとも考えられている。
 この地域の情勢から考えると、伴氏に関連した城館であった可能性が高い。

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/595e93335826de9287051f6c59321b57

津山城は、通称「伴谷」と呼ばれる山村三郷(上山村・中山村・下山村)に勢力を誇っていた伴氏が、伴同名中を構成した侍衆の城だと思われる。

【歴史】

 津山城は、通称「伴谷」と呼ばれる山村三郷(上山村・中山村・下山村)に勢力を誇っていた伴氏が、伴同名中を構成した侍衆の城だと思われる。地元では津山氏が城主だと伝えられてきたが、本来伴氏が居城したというのが通説で、伴氏は戦国中期頃、唯利のときに美作の国津山へ移り住んだとされ、この移住先の津山が誤って城主名として伝えられたのかも知れない。津山右京の城と伝えられます。

天台宗   善隆院     大字下山字細佐
 津山城跡の南、臼井氏宅の裏にあったが、浄土宗九品寺の草創によって廃寺となり又本尊等も不明である。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

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甲賀の津山城

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甲賀の津山城

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伴家の墓

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昨日報告会でお話しに漏れていた正式に美作国と期された資料が見つかりましたので、川上仁一先生のお手紙もお送りしておきます。伴家一族には伴右衛門尉惟安 惟利なる関連する記録はございませんでしょうか? 州忍者鶴山隊 克丸

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 鶴山隊については、森下様や黒党の黒井氏より御聞きしておりました。また、山田先生より、津山の方を訪問された事も伺っており、伴家と津山との関連史料についての御問い合わせも頂いておりました。
 幸いに森家時代の津山藩と甲賀伴一族は縁が深く、「森家先代実録」には伴家の由縁が載せられていますね。当然、この史料は知る者は知る、と云ったものですから、多くの史家の目にも触れています。
 伴家は鵜殿攻めの際より、石川家や森家と昵懇とされ、多くの伴氏が森家に仕えました。鵜殿攻めで家康より感状を得た与七郎資定(後に帯刀を称する。)の系や、伴岡崎等の系からの仕官が有りました。
 嫡家の太郎左衛門資家が、本能寺で森蘭丸兄弟共に討死し、この際に甲賀の伴忠安、忠利親子が末弟忠政母子を匿った縁故により、その後、津山森家の重臣に取り立てられたとされています。主君の「忠」を憚り「唯」に実名を改めたとされています。(唯は惟とも)
 この岡崎系伴家は金創術で著名な家です。嫡家は絶え、太郎左衛門の弟は近江八幡に出て、後の伴庄兵衛、伴伝兵衛として商人となります。近江商人として著名な家です。江戸期の国学者伴高渓はこの伴家の出です。
 因みに、津山森家の著名な武芸者、高木流の高木馬之輔は、その妻君は伴与七郎家の出です。馬之輔の弟を称した性鐵軒は通称を与七郎と云い、後に私共の地、小浜藩に槍術師範として仕えました。高木伴助家と云います。
 私共の所には、「参江伴系図」「伴嗣系」等の系譜や「伴流金創」等々の史料が残っています。森家との関連を記した物は系図に有りますが、史料としては今一です。(系図や由緒書は自家に都合良く記されてる場合が多く、史料としての信憑性に欠ける場合が多いため。)私も自分の所の史料を詳しく見てないので、此を機会に余暇には調べてみようと思います。
 森家改易の後に、分家やその後の津山藩、赤穂藩等々に、伴家の人々が仕えている様です。(分限帳等による。)末裔の方々もいらっしゃる様です。森家を辞した後に甲賀の在に帰村した者も多かったですね。これ等は百姓身分となります。私はこの伴一統に伝わった忍之伝を継いでいます。忍術、兵法、武術の伝書も残ってます。御縁を頂き有難う御座いました。今後とも、どうぞ宜しく御願い申し上げます。甲賀流伴党21代目宗家 川上仁一

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