
江戸時代の庶民の貴重な実例『美作孝民記』

津山郷土資料館ミニ企画「お正月」

弥生の里文化財センター(民俗資料館収蔵庫)

津山商工会議所女性会秋の津山城(鶴山公園)散策

近世美作の孝行のあり方や庶民生活の資料として、貴重な事例を提供してくれる『美作孝民記(みまさかこうみんき)』(文政3年刊行、10巻10冊、甲田行喜編)
実話にもとづく孝子伝です。著者は医業を営むなかで貧しい農民の生活実態を知り、その中から親孝行の実例を収集・編集しました。数多くの挿絵が用いられており、江戸時代の美作の庶民生活をうかがい知ることのできる貴重な資料です。(文:津山郷土博物館企画展示説明より)
※上記の絵は、田熊下村 弥三八(現:津山市田熊)の挿絵。
近世美作の孝行のあり方や庶民生活の資料として、貴重な事例を提供してくれる「美作孝民記』(文政3年刊行、10巻10冊、甲田行喜編)があります。その中に、津山市田熊や津山市坪井下の親孝行の話が挿絵と共に紹介されており、江戸時代の美作の庶民の具体的な生活を知ることが出来ました。
田熊下村 弥三八 (現:津山市田熊)
商北郡の農民である弥三八とその妻が、生まれつき病弱な母と目が不自由な父の世話をする様子が記されています。寒い日には母の手を自信の肌で温めてあげたり、母が姉に会いたがれば1里(約4km)離れた嫁ぎ先まで雨の日も晴れの日も負ぶって連れて行ってあげるなどの、献身的な行為が村で噂になりました。その結果、領主が米五俵を褒美として与えました。(『美作孝民記』三)
坪井下村 甚五郎 (現:津山市坪井下)
幼少にして母を亡くした甚五郎は、母の代わりに朝夕の食事の支度や風呂の準備などの家事もこなしていました。小さい頃から孝行心が深く、生まれつきの柔和な性格と心がけの良さが評価され、領主から青銅五貫文を与えられました。この絵の中では、家の表にある障子に落書きをされても「洗えば落ちる」と言って喧嘩を諫める様子が描かれています。(『美作孝民記』五)
『美作孝民記』に見る子どものヘアスタイル
時代劇を見ていると、印象的な髪型の子どもが出てきます。江戸時代の子どもは、どのような髪型をしていたのでしょうか。
江戸時代後期に書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』という本は、江戸や上方の子どもの髪型について、挿絵つきで解説しています。本によると、まず「男女児ともに出生して7日目に産髪を剃る」とあります。剃り方は1つでなく、すべて剃る、てっぺんと後ろ髪だけ残す、いったんすべて剃り、てっぺんや後ろ髪だけ伸ばすなど多様でした。また、3歳になると「髪置」というお祝いをして、耳の上辺りの髪を伸ばし「奴」という髪型にする子どもが多い中、さまざまな例外があったようです。
江戸時代に出版された『美作孝民記』の挿絵の一部には、美作の村や町に住む子どもたちが描かれています。この挿絵から、子どもたちの髪型を紹介します。
まず、図①②③で抱っこやおんぶされている赤ちゃんは、髪の毛が描かれておらず、産髪を剃っていたと考えられます。
図③を見ると、赤ちゃんを抱く女性の後ろに、2人の子どもが描かれています。お盆を運んでいる子どもの髪型は『守貞漫稿』によると「芥子坊(けしぼう)」と呼ばれるもので、女性の肩をもんでいる様子の子どもの髪型は「奴」に分類されるものに見えます。図④は10歳になる前に働き者として有名になり褒美をもらった女の子、図⑤は大人のけんかを仲裁している10歳から14歳頃の男の子です。図⑤と⑥の子どもたちは、前髪の少し上から頭のてっぺんの辺りが白くなっていて、この部分を剃っていたことが分かります。
これらの挿絵は、子どもたちのさまざまな姿の一部に過ぎません。江戸時代の資料に子どもが登場する場面は少なく、子どもの生活や成長過程、教育など、不明な部分が多いのが実情です。
しかし、もう一度、挿絵を見直すだけでも、女性が素肌に赤ちゃんを抱っこやおんぶし、着物ですっぽり包んでいた様子、子どもたちの服装など、興味深い点がいくつもあります。視点を変えて資料を見直すと、新たな発見があるかもしれません。津山郷土博物館(文:「広報津山 令和4年3月号」より引用)
図① 図②
図③ 図④
図⑤ 図⑥