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取材記事内を検索ワード「秋」で検索した結果,494件の記事が見つかりました。

第二回 つやま町燈路(城東地区)

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 令和3年10月23日(土)18時~20時、第二回つやま町燈路が、城東地区12町内、11箇所(中之町は当日不幸があり急遽中止)で2610個の灯籠が灯されました。
 今回もウィズコロナの観点から事前告知を一切行わず、地域住民のみのイベントとして開催されました。上之町6丁目と西新町が共同で旧出雲街道の参道開始点から大隈神社の本殿前までを700個の燈篭で光の道を作った。(県重要文化財付近はLED光源を使用して火災の発生を防止した。)
 また、旧出雲街道沿いの民家の軒先に並べた灯籠は、重伝建の町並みとマッチした景観となり、多くの地域住民が沿道に出て景色を楽しんだ。
2020年10月17日2020年10月17日(土)の夜(大隅神社宵祭りの夜)

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金刀比羅宮の秋祭り(加茂町)

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 2021年10月10日は加茂の金刀比羅宮の秋祭りの日ですが、今年も昨年に続き新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、神事のみ行われたようです。


 日詰山には、寛文年中、四国金刀比羅宮の分霊を奉還し安置す。明治42年、宇野原口、楢井行重、百々、中原成安、才ノ谷社を合祀し安置す。大三輪大明神、惣道天明神、大山祇社、大月大明神、日野目大明神、末社には19の命を祭り奉還す。
相殿に大物主命、速玉之男命、伊弉冉命。
・神を祭祀せば=悪い病いのたたりなくなると言う。
・神を祭祀せば=農耕、養蚕、織物を治め一番大切な祖神がある。
・神を祭祀せば=心おちつき事に当たりなしとげらるるという。末社、荒神社は安産の神、稲荷神社に商法の繁昌、木山神社山の神、末社多くの神々を安置す。広く県外からも参拝し祈願者も多い。
金刀比羅神社(案内板より)加茂の金刀比羅宮(2011.6.25取材)昭和52年4月氏子等によって再建

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綾部西で咲くコスモスの花

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綾部西で咲くコスモスの花
2021年10月10日、秋晴れの中加茂町に行く途中に見かけた可愛らしいコスモスの花を撮ってきました。ここは「農村環境向上活動 景観形成 花いっぱいの郷 綾部西エコネット」の看板が建てられている田圃で、赤・ピンク・白・黄色のコスモスの花が風に揺れて楽しげです。
(この活動の未来は、より良い環境に恵まれた持続可能な社会 ~山から海まで 豊かな岡山を 次世代へ~)

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壇上山 清浄院 神宮寺(美作市)

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 当山は天平7年(735)の秋、行基菩薩が梶並の地を巡錫した時、梶並神社の境内が誠に美しく、清らかな霊地であることに深く感銘し、この境内に薬師堂を建立し、別に一寺を建て、これを神宮寺と名付けたと伝えられています。
 当時は仏教の興隆が盛んで、神仏同体説が唱えられました。大日如来は天照大神、阿弥陀如来は八幡神の如く、神を権現菩薩と唱え、僧侶は別当職として神事に参加し、神社の実権を分担し法業として神前に読経する風習が行われていました。
 享保元年(1716)、幕府の宗門改革により、薬師堂は磯神社と改め、神宮寺は大日庵という山伏寺のあった現在の地に移しました。
 また、津山城主・森忠政が当山の清浄なるに感じ、香水山と名付けたと、作州誌に書かれています。
 近年は、檀信徒の協力のもと石垣改修、客殿新築等、境内の整備に努めております。
 また境内のしだれ桜は見事で、遠くからも多くの観光客が訪れています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)

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秋空に美しく咲くバラの花(甲本バラ園)

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 2021年10月14日、津山市領家にある「甲本バラ園」(津山市領家1163-6)をお尋ねしてきました。
甲本通晴さんのバラ園では、四季咲きの色とりどりのバラの花が咲き始めていました。甲本さんは、「秋のバラの花はつるバラが咲かないので、春ほど華やかではありませんが、夫婦で秋にも美しく咲くようにと丹精込めて世話してきたので、是非見てください。」と話されていました。今年も秋に咲くバラの花を求めて遠方から訪ねて来られているそうです。まだ、咲きはじめなのでこれからが楽しみなバラ園です。

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3rd OKUTSU ART FESTIVAL(道の駅奥津温泉)

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 2021年9月26日に鏡野町を舞台に開催されるアートイベント「第3回OKUTSU芸術祭」2021年9月11日(土)~11月21日(日)に行ってきました。 この芸術祭は作州地域ゆかりの若手作家さんの作品が展示されていて毎年、楽しませていただいています。さっそく立ち寄った道の駅奥津温泉では、手ぬぐいアート作品が所狭しと飾られて秋の空にたなびいていました。

鏡野町観光協会、道の駅奥津温泉、石庭遊園地、旧武本名産店、池田屋河鹿園、かがみの近代美術館、奥津公民館、みずの郷奥津湖、国民宿舎いつき、そば処秀峰、宝樹寺、鏡野町ペスタロッチ館、富総合福祉センターほか TEL.086-52-0722(かがみの近代美術館)
※日程、料金など変更されている場合がありますので、お出かけの際は問い合わせ先にご確認ください。

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森忠政の義母生光院霊屋(久米南町)

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生光院霊屋(みたまや)
 創建時の名称、美作国主初代森忠政がその義母生光院のために建立されました霊屋で、正面須弥壇には、生光院が生前崇拝の弥陀如来立像と生光院の位牌とを安置されました。施工者は大阪の番匠勝右衛門、当時の住職は第12世深誉。
 生光院は柴田勝家の女で、初め塙備中守直政に嫁し、直政死後原隠岐守に再嫁せられ天正11年(1583)隠岐守戦死により生光院はその子長満(4歳)の成長を護るうち天正18年(1590)秀吉は長満が勝家の外孫であるの故を以て、之を殺した。生光院は悲しみのあまり全く志を失い越前大野木に隠棲するようになり大野木氏ともいわれます。
 森忠政は、塙直政の養子となる約束がありましたが、直政死のためそのままとなり慶長8年(1603)美作国主として津山に来られました。慶長15年(1610)大野木氏が越前に存世のことを聞かれ、大いに懌び、家臣川村左介を特派して大野木氏を津山に迎え250石を給するなどして配慮至らざるなく、常には家臣富田久右衛門を傅として諸般世話せしめられました。

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真経に住んだ津山藩主の一族(鏡野町)

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 真経部落の北端、山を背にして南西に開けた小高い丘に「屋敷の段」という地名がある。その昔、慶長八年(1603)美作の領主となった森忠政公の第二子重政君が若き生涯を終えた屋敷跡である。
 その南方約二百米ほどの所に「春谷口」という地名がある。この東の山腹三十米ほど上がった地点に御墓所(町指定史跡昭和五十四年四月一日付)があり、御墓畝と呼ばれている。重政君を火葬に付した場所であるともいわれる。
 森家先代実録によると、
「重政君御名大膳亮(だいぜんのすけ)、文禄ニ癸巳年四月二十三日濃州金山に生まれ給う。元和四戌午年六月五日作州苫南郡真経村にて御年二十六歳にして卒し給う。同所槇尾畝に葬る。墓印に柊の木一株あり。その後久米郡南里方村栃社山誕生寺に改装す。-瑞応院殿光禄桂林俊芳大禅定門

 重政君の御母堂は山内源左衛門の養女にて香々美という。川中島より引越し作州かが美の溝尾に居住す。故に皆人呼んで香々美という家女なり。万治三庚子年五月二十五日作州にて死す。八十九歳。同所法源山宗永寺に葬す。―清泰院栄厳寿永大姉
 清泰山栄厳寺にも位牌があり。清泰山松寿院に墓碑あり。分骨して寺内に納む。
 重政君御子御女子一人あり。御名於捨。慶長十六辛亥年苫南郡真経村にて生まれ給う。妙願寺二代目浄公室にならせられる。延宝二甲寅年十月一日卒。御年六十四歳。津山神王山渓花院に葬す。
―清光院殿慈沢性潤大師 影像を妙願寺後堂に安置す。」という。

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田中孝夫が残した作品たち

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 田中孝夫氏は、大正10年3月津山中学を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科を卒業後、昭和3年4月兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務、その後、岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)の第6代校長になり、昭和25年3月5日退職。しばらくして昭和31年作陽短大、昭和32年から美作短大の教授になった田中孝夫氏ですが、ここでは一部ですが氏が残した作品たちをご紹介してみます。
 上記の絵は、丹波篠山高等女学校時代に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。迫力のある絵で最優秀作品候補になった絵です。

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山田方谷旧宅及び長瀬塾跡

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 この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。方谷は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士の河井継之助(1827~1868)が方谷の教えを請いにこの地を訪れています。
 方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
 学規(塾のきまり)も5条定められていました。要約すると次のようになります。
1,1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2,帰省および遠出のほかは外泊してはいけない。理由があって帰れないときは報告する。
3,毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4,秋冬にはしっかり読書する。
5,寮内を清潔にし、傘、はき物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。 
高梁市教育委員会

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