本源寺で森忠政公380年忌法要が行われました。
津山市小田中にある東海山 本源寺の
本堂、庫裏、御霊屋、霊屋表門、中門が国指定重要文化財
江戸時代 前期までに建てられた津山藩森家菩提寺の東海山 本源寺が新たに国の重要文化財に指定されることになり、2013年7月1日(月)~7日(日) 午前10時~午後5時まで国指定重要文化財記念として一般公開されました。また、7月7日(日)は森 忠政公380年忌法要が行われました。(2013年7月3日・7日取材)
津山市小田中にある東海山 本源寺の
本堂、庫裏、御霊屋、霊屋表門、中門が国指定重要文化財
江戸時代 前期までに建てられた津山藩森家菩提寺の東海山 本源寺が新たに国の重要文化財に指定されることになり、2013年7月1日(月)~7日(日) 午前10時~午後5時まで国指定重要文化財記念として一般公開されました。また、7月7日(日)は森 忠政公380年忌法要が行われました。(2013年7月3日・7日取材)
▲東海山 本源禅寺 本堂 国指定重要文化財(2013年6月17日、7月3日取材)
本源寺は、津山市街西部に位置する、臨済宗妙心寺派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。境内中央に本堂が建ち、東に庫裏が並ぶ。本堂の北西が森家の墓所で、霊屋と霊屋表門を配する。
本堂は慶長12年(1607年)に上棟され、桁行25.3m、梁間18.9mの方丈型本堂で、屋根は入母屋造、桟瓦葺とする。現在花頭窓が設けられている正面などは改変されているが、柱や梁組などの主要構造は当初の様子をよくとどめている。
2013年3月28日千光寺のしだれ桜が咲いています。
千光寺は近代の教育・福祉に大きな足跡を残している。明治7年境内に日新小学校が開校。大正10年には早川賢牛和尚が、市内最初の幼稚園を創設、戦後養護施設に改組して今日に至っている。2011年4月3日の様子はこちらから、2010年の様子はこちらから
主祭神 誉田別尊
由緒沿革 勧請年月は詳らかではないが、口碑によると仁徳帝(313~399)の御宇に帰化した秦氏の祖を部民が斎き祀ったものという。当時此の地に倭部を置いて蚕業織絹の業が大いに拓けた、よって地名を志戸部という。
本山寺の枝垂桜と逆木櫻を一度見てみたいと足を運びました。境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えています。ここは、国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)、県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)があります。(詳しくはこちらで)
本行寺(ほんぎょうじ)のしだれざくらとひがん桜(2013年3月28日取材)
本行寺は、慶長9年津山市街の成るに及んで南新座に移り、更に今から約367年前の元和2年に現在の西寺町に移ってきた。境内墓地には「人間裁判」の故・朝日茂氏のお墓がある。(詳しくはこちらで)
寂静山 教本寺跡
下高倉西二区公会堂から北北東に約200mのところに「宗祖見眞大師650回忌法要記念碑」がある。この道を隔てた北側が教本寺の跡地である。寂静山教本寺は天正2年9月(1574)に真言宗備永寺として建立された。
その後、享保14年(1729)、備前守右近正広入道の時代に浄土真宗に改宗された。明治26年、12代導隆のときに本堂が再建され、13代導徹も引き続き寺院の整備につとめ門徒数も増加した。当時お寺の縁日には地元の高倉をはじめ、遠方からも大勢の参拝者が続き賑わっていた。
宝蔵寺
当寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。文化十二年(1815)頃には、無住寺で本堂四間四面南向、庫裏四間半八間、鐘堂、長屋、鎮守山王権現小などを残すのみであったが、「東西百間余、南北二百間余」の広い境内や、東林房、安養房、惣門などの旧跡が残存し、かつての大寺の面影を残していた(『東作誌』)。
二尺七寸の本尊大日如来坐像、脇立の不動明王と毘沙門天はいずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)に『東作誌』に記録されているものであろう。(加茂町史より)2012.12.13取材
金峯山修験本宗 長命山 多寶寺
往昔の吉備中山は和歌題詠の名勝であった。その中山の麓山形の地に、長命山 多宝院とと唱へる修験道場があり、慶長年中津山の城主森美作守忠政が、津山城艮の鬼門除祈願所として、陣具を奉納せられたとの傳があり、現在津山市大谷の石山摩利支天も此時に祀られたとのことである。昭和年中より文化年代に渉っての住職、七代目大僧都宗春、八代目権大僧都宗栄の二代は、相続いて苦行を修し、厄難除けと併せて、女人安産に霊験顕著であった。その為め世人の崇敬を受け、隆盛の道場であったが、慶応年中には無住となり、堂宇破損ついには風の為め倒壊するに至ったのである。當時堂内にあった佛像はこれを字水原に移し、小堂を建てて保存したのであったが、寺跡は明治以降山林と化し、其後周辺は開墾されて畑となり、僅かに寺号のみが傳へられたのであった。近年に至って宗教法人法附則第五項の規定によって、県知事の認証を得、昭和二十七年十一月十三日登記手続きを完了、寺号を長命山 多宝寺と号し、旧時の遺跡である、山形東俗称宇根の地に堂宇を建立、金峰山修験本宗に所属し、住職は管長の任命によって、大阿闇梨僧都孝範が就任し、再來天下泰平万民豊楽の祈祷を執行、毎朝鳴り渡る法螺貝の音は、那岐連峰にこだまして、勝北平野の静空を流れ、八万四千の煩悩の夢を覚して居るのである。(文:新野村史より)2012.10.27取材
菩提寺略縁起
当山は、お念仏「南無阿弥陀仏」の元祖で、浄土宗を開宗されました「圓光大師法然上人」が、初めて仏教を学ばれた聖域にして、浄土宗史蹟であります。
その草創は、持統天皇(41代)朱鳥6年(692)役の小角神変大菩薩が名木の神山(那岐山)に霊地を求め、この地に修験道場を開き、後に天平年中、聖武天皇(45代)の勅願によって行基菩薩が自ら十一面観音像を刻んで中堂に安置し、「元明天皇(43代)の菩提寺」として再興開基し、七堂伽藍三十六僧坊を建てめぐらし、四宗兼学の学問道場として各地から学僧が蝟集し、その興隆数百年に及んだ。
その間"法相""天台""浄土""真言"と各宗変遷をたどり多くの名僧を輩出したが、殊に法然上人(幼名勢至丸)9才(1141)から13才まで、父漆間時国公の遺言によって、母方の叔父、勧学得業上人のもとで学問を始められた史実は、勅修「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)に伝えられる処です。
往古の伽藍の様相を、僅かに残る中古の記録によると、'本堂九間四面""観音堂五間四面""鎮守堂四間四面""不動堂二間六面""鐘堂二間四面""通堂九間"等々記されており、広大な規模を彷佛とさせられるものがあります。
数百年の繁栄も、この地が険要であったが為、地方豪族の拠点として菩提寺城等の城砦を築き、戦国乱世に頻りに災禍を受けてついに天文2年、尼子義久の焼打によって、悉く灰燼となって以来衰微の一途を辿り、江戸末期僅かに残る草庵も焼失し、無檀、無禄につき復興のめどなしとして、一旦は廃寺となったが、法然上人遺蹟地の故、明治十年寺名再興浄土宗復宗の官許を得て作因両州近郷近在の檀越、信徒共々信心を凝して本堂再興(明治十三年)、以来現在に及んでいる。
1、本尊:十一面観世音菩薩 座像、嵯峨大覚寺から文久元年招来。
2、阿弥陀如来:芝増上寺から蔓延元年招来
3、勢至丸像:勢至丸様(法然上人幼名)の霊像で、阿弥陀如来と共に奉納された唯御一体の圓光大師少年姿、冷泉為恭の作。
4、守護神:摩利支天王を勤請し、境内の守護神として巌上に御鎮座
5、観覚塚:勢至丸様初学の師、観覚得業上人の御墓、熊谷蓮生(直実)の建立と言われる、石塔は近年の建替え。
6、大公孫樹:勢至丸様9才入山の際携えた、いちょうの杖を「我、未来に弘めんとする法門盛んならば、必ず繁生せん」と本尊に誓って挿し木したと伝えられている。
果たして念仏の興隆と共に繁茂し、目通り13m余高さ40m余の巨樹となり、昭和3年国の天然記念物に指定された。
資料提供:高貴山 菩提寺(2012年11月14日取材)