「那岐山麓菜の花まつり」です。
2019年4月20日「那岐山麓菜の花まつり」が開催されている奈義町の広大な菜の花畑に行ってきました。奈義町現代美術館周辺と滝本にも会場がありました。
真っ青な青空の中、那岐山麓に向かって真っすぐに伸びる道の両脇には黄色の菜の花が美しく咲いてとてもきれいでした。また、21日には奈義町の特産品が味わえるグルメテントやイベントもあったようです。
2019年4月20日「那岐山麓菜の花まつり」が開催されている奈義町の広大な菜の花畑に行ってきました。奈義町現代美術館周辺と滝本にも会場がありました。
真っ青な青空の中、那岐山麓に向かって真っすぐに伸びる道の両脇には黄色の菜の花が美しく咲いてとてもきれいでした。また、21日には奈義町の特産品が味わえるグルメテントやイベントもあったようです。
宝蔵寺のヤマザクラの咲いた姿を撮影してきました。
宝蔵寺のヤマザクラは中興以後に生育したものと思われ、幹は地上5mのところから双幹となっている。花の時期は4月中旬が見頃で、満開の時は見事である。推定樹齢:250年、目通り:4.0m、樹高:24.0m(看板より)(2012年12月13日取材)
宝蔵寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。
2019年3月28日の千光寺の枝垂桜です。(2018年3月28日の千光寺の枝垂桜の様子)
曇り空ではありますが津山地方は晴れて随分暖かな日になりました。城東地区の寺下通りにある千光寺の枝垂桜も一気に開花が進み、大勢の方が見学に来られていました。
勝北町が文化財に指定し長く保存している天然記念物部門の中に同町大吉の真言宗・五穀寺の紅梅(平成二年五月二十八日指定)があります。
この紅梅は、寺の山門を入った左側にあり、根元の周囲は二・六m、地上一mのところで二つの枝に分かれ、南の枝が一・三m、北の枝が一・六m、高さは五mあり、樹齢は三百年(元禄時代、一六九〇年ごろ)と推定される老樹。
寺の伝えによれば、今からおよそ二百二十年前の享保年間に、五穀寺は火災にあったといわれ、紅梅の樹齢からみて、この大火を凌いだ記念の木ともいえる。
2019年3月20日、津山市にある千光寺のツバキの花を撮りに来たら、住職に「もう、ツバキは終わったよ。」と言われてしまいましたが、境内にはまだ可愛く咲いたツバキの花が沢山残っていたので撮って来ました。そういえば今度は境内の枝垂桜がメインになってきますね。
駐車場の枝垂桜はピンクになっていて今にも開花しそうな勢いです。階段を上がると門の横の枝垂桜は開いているものもありました。
修験者の堂・円万寺 毎年8月祈祷祭続く
勝北町坂上の国道五三号線から、北側にわずか入ったところに、カリンの大木が聳える堂が見える。土地の人からは行者堂または円満寺(円万寺)と呼ばれ、かっては苫勝霊場三六番の札所であり、数年前に改築が行われよく整備されている。この寺について「勝加茂史」には、真言宗醍醐派三宝院の末寺円万寺花王院、元禄十一年(一六九八)あるいは天明二年(一七八二)の創立ともいわれ、本尊は如意輪観音と載せられている。
せんねんの町文化財保護委員会の調査では、木造の役行者像や数体の仏像と鋳鉄製の高さ十二cmあまりの如意輪観世音菩薩像一体があった。この観音の台座には、施主流郷重郎右衛門・全吉左衛門・全株内、冶工作陽柱百済清治郎藤原正邦作の銘があり、施主名などから江戸時代末期ごろの作品と思われる。
変化観音の一つで千手千眼観自在菩薩といい、千の慈眼・千の慈悲を持って衆生を済度するという。普通は胸前の合掌する両手を除き、左右ニ十手ずつの四十手像で、掌中に各一眼をもつ。
一手はよく二十五有界の衆生を救うとされることから、四十手で合計千手となる。また十六手のものもあり、それらの手にはいずれも仏具類を持ち、頭上には一面・九面・十一面または二十七面のものもある。
千手観音は十一面観音とともに奈良時代より庶民の信仰を集めている。石仏としては私達の身近に見られるこの仏は、手の数も頭上面も儀軌(この場合は仏像彫刻上の約束事)によらないものが多い。
なお五穀寺にある石仏については十一面千手観音菩薩と思われるが、見る人によっては十一面観音菩薩と思われるかもしれない。
鬼子母神は、もとは幼児を捕えて食べる悪鬼女であったが、自分の子供が奪われたことから改心して、のちには子女を庇護する善神となった。
生んだ子供が五百とも千ともいわれ、このことから出産・育児の神としての信仰がある。その像容は諸児を抱き従える天女の姿であるが、時には鬼神を示す場合も見られる。
鬼子母神は左手に一子を抱き、右手に吉祥果を持つ立像が多く見られる。
河原儀山 眞光寺 大字福田下村
作陽誌と宝暦5年の由緒書上帳によると承和元(834)年3月15日弘法大師の関闢で、旦那は左衛門殿大江行経である。大師の御弟子 南池院僧都源仁法印が担当しての草創であり、当然真言宗の寺院であった。其の98年程後、承平2(932)年、比叡山の民部大僧正が流しものになったか、それとも自分から身をかくす必要があっのか当国に下着した。そして福田下村の地で霊異を感じ、加賀国の白山権現を勧請して天台宗の寺院として念仏思念三昧に入ること百日、たちまち9万8千の軍神が机の4面に現れた。ということで、最初の98年程の間、真言宗であったものが承平2(932)年以降天台宗に変ったものである。
幕府の力が弱まり、世の中が不安になると、全国各地で100近くの一揆が起きています。藩の政治を改めることを要求したこの一揆を美作では改政一揆と呼んでいます。
1866年11月24日の夜、行重村(加茂町)の真福寺の鐘を合図に、美作中に広がる一揆が起こりました。この一揆は、最初は行重村の直吉たち、10人ほどの農民が起こしたものでした。それがたちまち藩の政治に不満をもち、世直しを求めていた民衆の間に広がり、次の日に城下におしよせた一揆勢は、米屋や、藩と結びついた商人の家をおそいました。
この年は大雨と冷害・台風などのため大凶作で、幕府の命令による二度目の長州出兵もあり、人夫の負担、物価の値上がりなどで、年貢の納期が近づくにつれ、農民の不満が高まっていました。
・今年の年貢を引き下げてほしい。
・年貢米を検査する役人の不正をやめさせてほしい。
・長州(山口県)への出兵に、人夫をかり出さないようにしてほしい。