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高室山浄光院 愛染寺で33年ぶりの御開帳がありました。

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 2020年10月11日、津山市西寺町にある、高野山真言宗 高室山浄光院愛染寺に於いて、33年ぶりの御開帳が行われました。ご本尊は、千手千眼観世音菩薩(木造で高さ約1m)江戸初期の制作だそうです。本堂では厳かに大法要が行われました。
 千手千眼観世音菩薩の御手より五色の紐が境内の大塔婆に導かれるとのことで参列させていただき、五色の紐を通じてお祈りさせていただきました。
 今年は新型コロナウイルス感染症拡大防止が叫ばれている中なので、三密を避けながら静かに行われました。(写真の一部は、井上さんと中山さんにご提供いただきました。)

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2020 摩尼山 高福寺のアジサイの花

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 2020年8月1日津山市阿波にある摩尼山 高福寺のアジサイの花を撮りました。
遅かった梅雨明があり厳しい暑さが戻ってきたのですが、阿波では時折涼しい風が吹いていて皆さん畑や田圃の畔草刈りに汗を流していらっしゃいました。そんな景色を見ながらふと高福寺のアジサイの花がまだ残っているのか行ってみようと思いやって来ました。着いてみるとアジサイの花はまだ健在で美しい鮮やかな青や白、緑と色とりどりの花を咲かせていました。また、ダリア等の花が美しく咲いていました。 
 本源寺開山天倫玄節大禅師をこの地に勧請し、元和四年(1618)に摩尼山高福寺創建されました。高福寺は創建開山禅師の因縁により、津山城主森家の鶴丸を寺の紋として使用することがゆるされている禅宗寺院です。(2009年の取材

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明徳山 上野寺のシャクナゲ・キクモモの花(鏡野)

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 明徳山上野寺は、天平年中に行基菩薩が一刀三礼により、本尊を勧請し、一宇を創建したと伝わるお寺です。昨年、高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場巡りに出かけたとき、来年は花が咲くころに再度伺うと約束していましたので訪問してきました。昨年より少し早かったのですが来てみるとキクモモ(菊桃)は満開で真っ赤に咲いていました。また、境内のシャクナゲがとても綺麗に咲いていました。

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本山寺宝篋印塔(美咲町)

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本山寺 宝篋印塔(美咲町定宗) 国指定重要文化財
 宝篋印塔とは、もとは宝篋印陀羅尼経という経典を納めるための塔で、基礎の上に塔身を置き、方形の笠をのせ、その上に相輪が立てられます。四隅に装飾突起がついた笠ご特徴的な石塔です。岡山県は宝篋印塔が多く作られた場所で、特に美作地域南部に多いとされています。

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男女山 金光院 吉祥寺(鏡野町)

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 当山はかつて七百有余年の昔、男山(おんやま)の東麓に山を負い、香々美川を眼下に堂・伽藍の荘厳さは、想像に絶するものであったといいます。
 しかしながら、慶長年間に暴風雨のため、男女山の半腹より崩壊し、境内・外の土地、建物及び什器を流失するところとなりました。そのために字旧寺に移しましたが、その後再び洪水のために流失し、今の地に移しました。
 明和三年(1766)、観深上人が堂宇を建立し、大変壮観であったといいます。残念なことに明治十三年火災により焼失し、堂宇を再建しました。
 平成十六年より堂宇・境内の整備事業を行い、伽藍の荘厳大いに整い、現在に及んでおります。
(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日)

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明徳山 上野寺(鏡野町)

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 当山は、天平年中に行基菩薩が一刀三礼により、本尊を勧請し、一宇を創建したと伝わります。
平安朝の一條天皇の時代に、陰陽博士清明・道満の二人が日本興地図を納めるために、数日当山にとどまり、石函を作り地図を納めたといわれ、石を切り出した場所にお寺が建立され、上野山明徳寺と号しました。
 戦国乱世の天正九年(1581)、毛利軍の西屋城攻略の戦火に巻き込まれ、堂宇全て灰燼と化しますが、慶長年間、釈龍圓上人により中興再建され、この時に寺号と山号を入れ替え、明徳山上野寺と改称されました。
 寛政年中の『寺院本末帳』には「西々條郡函村妙徳山世尊院上野寺」との記述も見え、時代の変遷を経て、現在の地に法灯を伝えております。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月15日)

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別所山 無量壽院 安養寺(鏡野町)

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 当山の開祖は、嵯峨天皇の時代嵯峨山と伝えられていますが不詳です。播磨の三木城主別所家の菩提所として再建され、別所寺と呼ばれていました。
 天正八年(1580)正月に三木城が落城し、別所長治自刄の翌年、宇喜多和泉守直家により別所山安養寺と命名されました。慶長の初め、快鏡上人により再興され、度々の災禍の後、弘化三年(1846)に日笠快道上人が新住され、私財をもって本堂、庫裡を再建され、宝筺印塔を建立、西国三十三観音を勧請、野津羅井堰築堤して水路を開くなど、中興の祖となられました。久田村安養寺の略歴です。
 平成五年、もとは旧奥津町土生にあり、奥津ダム建設のため当地を得て再建、平成十年四月に落慶しました。
 本尊は、阿弥陀三尊です。他に鎌倉後期の等身大十一面観音、室町期の不動明王ほか、聖観音、弁財天、毘沙門天などを祭祀してあります。西国三十三観音は南の山、岡山から北の山、天王ノ木にかけて勧請し、遊歩道も整備してあります。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日・20日)

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竜堂山 瑞泉院(久米南町)

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竜堂山 瑞泉院(第二十二番)
 当山は元、竜堂山阿弥陀寺といい、弘仁十二年(821)三月、玄昉末流賢景がこの地の一草堂(古御堂)に掛錫した折に、弘法大師の作と伝えられる阿弥陀堂を発見したことに始まります。昼夜禅定修観を凝らしていたところ、一夜本尊を夢の中に感得するところとなり、四年後に阿弥陀寺が建立されたと伝えられています。ところが明治五年に無住無檀のため、ひとたび廃寺となりました。
 その後、竜王山城主・岸備前守氏秀の祈願所となり、墓所も当山に設けられました。
 しかしながら、朝夕聞き慣れた鐘の音を慕って、有徳の人々が本尊供養と旧蹟保存を志すところとなります。
 岸氏の末族を初め、心ある信徒らが勧進に動き、明治二十五年十月、高野山より瑞泉院を移転し、現在に至っています。
 仏頂山興禅寺跡(三村家親供養塔)
 永禄九年(1566)、備中成羽城主・三村家親が、兵六千を率いて本陣を興善寺におき戦死しました。供養塔が興善寺跡(下籾一四八一番地)にあります。時代が下って明治四十四年の六月に、瑞泉院と合併しました。

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川柳公園(久米南町)

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紫雲山 光嚴院 泰西寺の奥の院
 元の西山寺跡には足王大権現を祀り、泰西寺の奥の院・川柳公園として信仰に観光に脚光を浴びています。(泰西寺から約五百メートル、句碑約三百基が建ち並ぶ日本一の川柳公園です)

季節にはサクラやツツジが咲き競う美しい丘の上の川柳公園は、久米南町のシンボルゾーン。300基以上の句碑を楽しみながらゆっくり歩いてみませんか?川柳の小径は川柳公園に続く遊歩道。公園までのおよそ200mの登り道を木立の脇に建てられた句碑に導かれるようにして進みます。句碑はすべて自然石で、刻まれた句は地元柳人だけでなく、全国からの応募作や著名人のものも多く、読みごたえがあります。(文:久米南町HPより)(2017年4月16日撮影)

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醫王山 佛教寺(久米南町)

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岡山県久米郡久米南町「醫王山佛教寺」の略歴と沿革
 当山、醫王山佛教寺は和銅3年(710)喜恵上人が開山、肩野部長者乙麻呂が創建した古刹。元明天皇の勅願道場として、東西80町南北100町の地域を賜った。
 元慶3年(879)二十二世、文観上人の時代、陽成天皇の勅願道場として、四十九院建立、近隣に比類なき伽藍美を誇ったが、天正9年(1581)兵火に罹れて悉く烏有に帰した。
 その後再建したがわずか六院だった。慶長9年(1604)津山藩主森忠政が寺領を寄進。堂塔を再建したが、元禄10年(1697)森家が断絶となり、経営の基を失って困難を極めた。
 明治初年まで六院あったが、本堂や仁王門を取り壊して、竹林寺(佛教寺別院)の文殊堂を移して本堂とした。
 現在諸堂の建物は、弘法大師1150年御遠忌を記念し、昭和49年より現在に至るまで、境内諸建物の営繕を行って来た。現在の住職は九十二世である。
 『竹林寺縁起』(永享7年=1435別当沙門良春、筆者宥然)に、「当国一宮、仲山大明神御社敷の本主肩野部長者・喜恵上人に帰依し奉り上人の寺を建立せんとして三百町の別所を開き、元慶3年乙亥の年四十九院を建立、夢想によって佛教寺と号す」とある。(文:佛教寺リーフレットより)(2019年9月8日撮影)

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