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取材記事内をタグ「神社」で検索した結果,242件の記事が見つかりました。

河面 斎田のあった歯朶(しだ)森大明神

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河面 斎田のあったあった歯朶森大明神(2012年1月28日取材)
 植月線河面坂を下り、平地にでる間際の南側山手(喫茶パンの木の裏山)に、ひっそりとした雰囲気の歯朶森大明神(しだもりだいみょうじん)と言われるお宮がある。神社へは、国道から南に入った最初の谷をしばらくいくと、鳥居が見え、境内への上がり口となる。神社らしい森のなかに、小規模ながら鳥居・石段・常夜灯・お宮の本殿とたたずまいをもち、よく手入れされ整えられている。
 伝承によると、平安末期に福井の新宮城に祀られていたお宮が、源平合戦の戦乱に巻き込まれて、落城の後ここに移されたらしい。文化9年(1812年)発刊をみた「東作誌」には、河面村に「歯朶森明神社」の存在が記載されていることからも、昔ながらの神社である。

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河面 清瀧寺関わりの広山八幡宮

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河面 清瀧寺関わりの広山八幡宮(1)
 清瀧寺の西側に隣接して、丘陵性の山地があり、その山頂の河面の八幡様がある。地名にちなんで広山八幡宮と言われており、清瀧寺の開基と同時に清瀧寺の鎮守として奉仕建立された伝承のある古い神社である。
 清瀧寺仁王門より100m余下った河面の旧道の麓から、山手へのほぼ真っすぐな急な石段が、神社への参道である。その上がり口に、岡山県のかかげた古い制札がある。風化して文字が読みにくくなっているが、敢えて判読すると、
定 1.車馬便乗 2.鳥獣拿捕 3.竹木伐載
右之條々御定通り 禁之者也 昭和12年7月12日 岡山県
とある。神社のある山の木や竹を伐採してはならない等の禁制の標札であるが、単に聖域を保護するのみならず、神社の造営補修の費用を賄うための大切な意味があった。このような禁制は、歴史的にも次のようにかなりな重みをもって記述されている。
 「清瀧寺修補記によれば  寛文12年(1672年) 宮山地内伐木赦免の事あり その後郡代長沼字右衛門尉禁伐の制礼を建つと云う その文に日く清瀧寺並に八幡宮宮山山林竹木伐採申間敷事云々 寛文13年(1673年)  森家の臣原十兵衛一春  天和3年(1683年) 原十兵衛一益等累代崇敬の為社殿を造営す此れより後 社寺分離宮山竹木一社勝手に造修用に伐採を許される」(「美作国神社資料」による。)2012年1月取材

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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑

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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑(2012.1.22)
 今日では、相撲と言えば、プロの相撲取りが行う国技館の大相撲を連想しがちであるが、昔は、各地方で素人相撲が盛んであった。幕末から明治~大正・昭和の初年まで、社寺の祭礼などにその境内で行う奉納相撲、社寺や仏像の建立修繕のために金品を募って興業する勧進相撲など、信仰と深いかかわりをもって行われた。この近辺では、すでに文化年代(19世紀初め)に植月の宮相撲は有名であった。祭の当日など相撲の興業があれば、遠近から力士や見物客が境内いっぱいに大勢押しかけた。見物客は、重箱、酒などを持ち込んで盛んに声援したもので、相撲取りは花形的存在であった。
河面のお祭り当日、今でも行われているお宮でも子ども奉納相撲は、こうした伝統を踏まえた祭礼行事といえる。

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河面 上原丘陵に存続の先祖社

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河面 上原丘陵に存続の先祖社(光井家の先祖社境内)2012.1.22
河面地域で、ある老婆と話をしていると、次の旨の話を聞くことができた。
「私ら光井姓を名乗る一族は、上原の先祖の社をお祀りしている。
 年に一度、秋には先祖祭りとして、親類縁者の光井株が皆集まって近長の大夫(神主)に拝んでもらった後、その場所でにぎやかに会食する。神様として"武内」さん"を祀っている。」後日、近くの老人に案内してもらった。上原集落に近い丘陵に、屋敷森か古い塚(古墳)を思わせるこんもりとした林があって、鳥居や境内をもつ先祖社が祀られていることが分かった。
 古代から氏神信仰は、一族で先祖を祀る社をもち、「予祝祭」(よわいまつり)として春、「収穫祭」としての秋にお祭りを行い、一族みんなでの共同飲食をする習わしがあった。(岡山県史古代2)これは、それを今にしてうかがえる氏神信仰の珍しい社である。
 これと似た事例として、作州では、菅家一族の信仰が知られている。
 作州の菅家とは、菅原道真につながる子孫が平安末期に配流されてより、菅原満佐を祖とする武士団を形成し、菅家七流と言われる大きな勢力をもっていた。
奈義の有本を筆頭に、勝央の植月、鷹取、美作の福光、英田の江見、原田、広土など、この後に奈義・勝北の豊田、久米の垪和、作東の安東、英田の渋谷等々も同族となり南北朝から戦国時代にかけて武士団とし名を成した。
 この菅家一族は、先祖神として相撲の神で名高い野見宿禰を祀っていた。
光井家については、「森家以来の大農にして、旧家たり。相伝う、光井氏は当国神楽尾城主田中修理大夫某の子、光井大夫を以って始祖とす。その子孫毛利家に仕ふ。毛利背下の周防国住人光井右京亮の裔(えい)という。」(東作誌)とある。先祖は周防地方(山口県)の同姓の多い光の出自とのことである。市内にある神楽尾城や医王山城は、毛利配下の城であり、光井家は先祖が毛利家としてかかわるだけに、光井一族の信仰が注目される。

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広野小裏山 小祠に祀られている広野神社

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 広野小学校裏山に小祠に祀られている広野神社(2012.1.15取材)
 広野小学校給食室の裏山に、学校の敷地に接して小さな社があり、広野神社として今も祀られている。ごく最近、広野神社と書かれた真新しい木造の鳥居が建てられ、その存在が明示されるようになった。それまでは、茂みの中に位置していて、近隣の氏子以外には、ほとんどその存在が気づかれにくい状況にあった。
 平成4年、岡山の年配の女性から広野小へ次の要旨の問い合わせがあった。


 「私は、元河面(こうも)出身の者だが、何十年ぶりかで津山を訪れる機会を得た。子どもの時分、病気し吹き出物にも困っていたとき、学校の周りのお宮さんにお参りして大変おかげを受けたのを覚えている。ついてはお礼に参ってみたいので、その場所を教えてほしい。」
その時私は、「学校周辺にはお宮はなく、河面の八幡様か福井の金刀比羅宮(ことひらぐう)ではないか。」と応えたが、私自身不明を恥じる次第となった。
 後で分かったことだが、校長室にある広野小初期の藁(わら)ぶき校舎を描いた絵に、広い参道と鳥居が校舎のそばに描かれている。また、江戸時代、「東作誌」の田熊村上分にも、小祠の祭神の記述が見られ、古くからの存在が裏付けられた。社伝は明らかではないが、社のなかに「広野神社御本殿再建正遷(せいせん)座鎮祀(ざちんし)当社氏子安全斎主宮司 豊田元留 昭和四九年壱月弐拾七日」と銘がある。

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福井 新宮城に関わる伝承の真宮神社

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福井 新宮城(しんぐうじょう)に関わる伝承の真宮神社(しんぐうじんじゃ)2012.1.15取材
 福井より大崎に向かう道中、土居の公会堂の周辺は、花畑がありきれいに公園化されている。そこに、真宮神社の立派な石造りの鳥居が見られ、その鳥居には、「明治33年10月」と刻まれている。また、鳥居の側に細長い石に刻んだ歌碑があり、「幾千代の栄を古めて 国安らふ可みの御前に植し常盤木 明治19年9月11日 安藤直清 61才」とある。惜しまれることには、常盤木と詠まれた松は、株だけ残して今は存在していない。
 鳥居をくぐり、広戸川に沿って木立の参道を百数十メートルほど下ると、真宮神社の境内に至る。神社は、新宮山の南山麓の林の中に鎮座し、背後に巨大な岩壁がそそり立っており、一見して古代の磐座を想起させる環境にある。新宮城の築城以前から、新宮山が「神の山」と呼ばれていた所以であろう。

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因幡往来に隣接 山王権現を祀る日吉神社

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日吉神社は聞き伝えによると、滋賀県の日吉大社から持って帰ったと言われています。大国主命の弟をお祀りしているとのことでした。太田町内会の宮総代の下山清さんは「昔は廻り舞台もあったが、終戦後に壊したのではないかと思います。そして、参道脇にはワラ家があって賑やかでした。また、日吉神社はすもうの神様なので境内には土俵があり、よく相撲をしていました。」とお話くださいました。日吉神社には記録も紛失して残っておらず、しかも荒れ放題だったのを下山さん達皆で立て直されたそうです。日吉神社は、川崎太田、玉琳、飯綱、東野介代、野介代東分の各町内会が氏子だそうです。毎年7月13日には「お湯立て」があるそうです。2011年10月16日取材

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田熊八幡宮の廻り舞台

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 重要有形民俗文化財「田熊の舞台保存修理工事報告書/田熊八幡神社」より

竣工 境内全景(正面に舞台、その西側(下手)に花道が拝殿に続く)

zumen2.jpg田熊20004.jpg田熊3005.jpg田熊4006.jpg

 左より舞台・花道・外観・舞台部内部(西から)・奈落部内部(西から)

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 皿回し式廻り舞台(盆を足で蹴って踏みまわす)・回転機構(横から)・回転装置(南からみる)

国の重要有形文化財に指定(昭和50年9月)されている「田熊の舞台」は明治4年(1871)の建築であり、明治・大正・昭和と娯楽の場として利用されて来ましたが、戦後の娯楽指向の変化によってその利用がされず、建築後およそ130年が経過し、傷みが進んで倒壊が危ぶまれる状態でしたが、先祖が残してくれた町内では唯一の文化財であること等、町民の皆様の理解が高まり、特に町外に在住されている田熊出身者の賛同も得られ、最終的には、目標額を超える多額の浄財が寄せられ、平成16年12月に竣工しました。

★2009年の取材はこちらからどうぞ津山国際総合音楽祭

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大隅神社の秋まつり

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2011年10月16日(日)大隅神社の秋の大祭がありました。秋晴れの中威勢よく町内を練り歩きました。大隅神社の御輿は天保13年に造られたもので、160年経っています。昨年修復されて生まれ変わりました。御神輿さまの四隅についているのは、小鳥(燕)、うさぎの絵は、因幡の白兎だそうです。

また、大隅神社には昭徳館「参集殿」があり、 昔はお参りする時に皆さんが集まる所で「おこもり殿」として使用されていたようです。※過去の取材記事はこちら 上記の写真提供:津山市秘書広報室

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白加美神社の秋まつり

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平成23年10月16日(日)津山市小田中の白加美神社(しらかみじんじゃ)の秋祭りがありました。※過去の取材はこちらから

白加美神社縁起(約1220年前)
人皇第44代元正天皇(奈良時代)の御宇当国戸川の宿の北に現在地美しい五色の虹が輝き渡った。苫田縣主通憲が驚いて里人にその所を掘らしたところ数尺も掘らないうちに神代の霊物と思われる、とても美しい璽(たま)が出た。その時忽然としてひとりの老翁が現われ告げるには我はこの月輪田原に居る神である。
この所に降居して久しいが、国人はまだこの地が霊地であること知らない汝を見るに心浄く性直で民を撫し敬神の念篤く「我は汝の誠心に感じ入っている。。※過去の取材はこちらから

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