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青柳神社(津山市加茂)

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青柳神社
御祭神 天照大神荒魂 金山彦命 天日筒男命
例大祭 十月十日
中祭  春祭四月 夏祭七月 冬至祭十二月
由緒・沿革
 本神社の創建由緒は不詳であるが、古人伝え云ふ。
天平勝宝年中(749~56年)直金を掘収したが失敗し、片金山の柳神社に祈願したところ、金山彦命、天日筒男命を奉賽せよと告げられ、柳神社を相殿として宮殿を造り、社号を中山神社としたのが其の起源である云われている。
 又、美作六十六社の一社であり、寛文8年(1668) に再建したとも云われている。「作陽誌」にも中山神社とあり外に国司大明神が祭られていたと云ふ。
 其の後、明治6年(1874)青柳神社と改称し、同9年、金山彦命、天照大神荒魂、天日筒男命を合祀して村社に列せられた。明治42年に大字青柳内の水分神社、経津主神社、伊勢神社、滝神社を合祀した。大正2年、時の流れに依り、上加茂神社(現千盤神社)に合祀された。
 それ以前は現在地より上の段に双殿として奉賽されていた。現在の本殿は其の一つの宮殿であった。それ以来、遥拝所となり昭和24年再び旧宮山に遷座奉賽される。
 平成6年10月、本殿、拝殿等老朽化が激しく、敷地を新しく造成し、本殿の修復、上屋・拝殿を氏子の浄財寄進等により、造営する。
平成9年6月吉日 氏子中  (2012年9月20日取材)(文:案内板より)

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物見神社の花祭り(岡山県指定重要無形民俗文化財)

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 物見神社の花まつりは、氏子が五穀豊穣を感謝し、家内安全などを祈願して造花を奉納し、御神幸に彩りを添える行事です。

 物見は3地区あり、傘型の花は、各地区で桜・柳・梅の3種類にわかれています。各地区の村人がそれぞれの地区に集まり、手分けして1日がかりで、柳・竹・色紙などを使い、趣向をこらして作成するもので、大人1人では支えられないくらいの重さのものです。作られた花は、祭り当日の朝、組み立てられ神社に奉納されます。午後、お旅所での神事の後、境内で太鼓の合図と同時に参拝者が取り合って持ち帰り、厄除けとして飾っておきます。また、輪にして屋根の上に乗せておくと火除けになると言われています。(県指定重要無形文化財)

※花の取り合いが終わった後、境内下の運動場で餅投げが行われます。又、前日の夜と、当日の午前中、だんじりに子どもを乗せて、物見ゼンチクをまわります。(今年は小雨が降ってもち投げは境内でなされました。)2012.10.28日取材(文:加茂観光センターより)


 物見神社は大正二年四月二十二日、浦栲の素盞鳴神社、天満神社境内にあった稲荷神社を合祀して旧天満神社跡にまつり、大字物見の名称を社号とした新しい氏神であり、祭日は四月十八日であった。その後、昭和二十四年、上加茂神社に合祀された旧氏神の天満神社を遷座して今日に至っている。2012.10.28取材(文:加茂町史より)


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物見神社(加茂)

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 物見神社は大正二年四月二十二日、浦栲の素盞鳴神社、天満神社境内にあった稲荷神社を合祀して旧天満神社跡にまつり、大字物見の名称を社号とした新しい氏神であり、祭日は四月十八日であった。その後、昭和二十四年、上加茂神社に合祀された旧氏神の天満神社を遷座して今日に至っている。氏子数は現在65戸で、祭日は十月二十五日である。

 なお、物見の秋祭りは注目に値する。花祭りとも呼ばれ、物見の三土居が、木箱、麦わら、川柳の枝、細い割り竹、色紙、大豆、藷で作られた、いわゆる「花」を奉納し、御神幸の先頭を飾る。御神幸の帰途、この「花」を打ち振り、打ち合い、氏子は「花」に飾ってある品々をわれ勝ちにと奪い合い、持ち帰って神棚・床にまつって、五穀豊穣を感謝し、家内安全を祈願する。また、魔除けだといって屋根に投げておいたりする。秋を彩る華麗な祭典であり、岡山県重要文化財に指定されている。(文:加茂町史より抜粋)2012.9.20取材

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田熊 集落に散在の荒神様、大町・横尾の荒神社

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田熊 集落に散在の荒神様(上の写真は大町荒神社)
 荒神様は、作州の農村では、身近に祀られている神様である。田熊あたりでは、大町、下木(合祀済)、上土居、中土居、後土居(亀割神社)、福井分であるが、隣接している横尾とほとんど小部落ごとに存在している。津山市全体では、かつては数百社以上の荒神様があったであろうと見なされ、当地方で一番多い神様が荒神様と言われている。(岸本佳一氏「津山朝日」H5.7.14)
 下木の磐座に位置している北向き荒神社を除くと、どれもが集落の中ほどか、家と離れていても、数十mの範囲の身近な存在の神様である。その好事例は、大町の荒神社であり、家の近くの、フロに相当する薮の中に小祠で祀られている。横尾の荒神様には、明和2年(1765年)から、天明3年、寛政6年、文化5年、嘉永4年、文久元年、そして明治以降と十数枚の棟札が納めてあり、江戸時代半ばから連綿と続いている荒神信仰が伺われる。
2012年9月9日(日)取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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加茂神社には崇道天皇の御陵がある。

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加茂神社由緒
鎮座地 津山市加茂町公郷字菊水山1,399番地
御祭神 味鋤高日子根命/伊弉諾命/大山咋命/伊弉册命
配祀  大巳貴命/崇道天皇
祭日  大祭 例祭 10月第2日曜日/祈年祭 4月29日/夏越祭 7月25日に近い土曜日/新穀感謝祭 11月25日に近い日曜日
本殿  流造
末社  八幡神社、御先神社、美保神社、英霊神社、養老神社、若宮神社、天満神社
 本社は、旧杉大明神と称し勧請年月興廃の沿革等不詳なりといえども、古昔より古老の口碑によれば往古苫北郡と称する時一ノ宮と尊崇される。桓武天皇の弟早良親王の御陵あるを以て崇道天皇と改称する。
 明治6年2月加茂神社と改称し、尚、能野神社、元公郷上分字高場に、又、日吉神社公郷下分字日野目に古昔より鎮座ありしを明治42年5月2日本神社に合祀した。昭和7年7月7日雷火の為炎上し同8年4月再建立する。昭和43年3月26日、加茂町指定文化財に指定された第一号秋草双雀鏡は青銅の鏡(平安時代)で境内裏山から明治15年に発掘されたものです。加茂町観光協会協賛 (看板より)2012年8月22日取材

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河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂

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 上原の丘陵端に民家より少し離れて、新築整備されたお大師堂がある。掲げられている額に、「苫勝霊場 第十九番本尊 地蔵菩薩」とある。 
 苫勝霊場○○番とは、かつての苫田郡・勝田郡地域の八十八ヵ所めぐりの札所(観音霊場)を言うのであって、戦前の八十八ヵ所めぐりが大変盛んであった歴史を伺わせるものである。霊場めぐりは、農閑期の春先に遍路姿で杖をつきながら歩き、数十人の団体で巡回していた。数日がかりの巡回のため、時折、上原中の民家が総掛かりで遍路宿をつとめ、世話をしていたと言う老人の話である。

 そもそも、八十八ヵ所めぐりは、観音信仰に由来し、観音霊場三十三ヵ所札所めぐりの発展した、四国の八十八ヵ所(弘法大師霊場)めぐりを示すものである。八十八基の石仏などを並べてあるのは、この霊場(札所)詣での写しで、多くの場合は、石仏などの前に、そこに示した寺院の土を埋めてお砂踏みをし、参詣と同じ意味を持たせている。八十八ヵ所の札所に参ると、それぞれ米粒を供えていく「御撒米」や、5円、10円などの硬貨を1枚づつ「御賽銭」として供えていく形の信仰は今も続いている。

 歴史的には、養老2年(718年)に西国三十三観音霊場が創設されて、弘法大師(空海)のゆかりある四国八十八ヵ所霊場が、平安初期(920年頃)創設された。一般大衆が、本格的に霊場巡りをするようになったのは、明治の20年代からと言われ、四国の場合徒歩で約60日かかっていた。そのため、苫勝の事例のように、全国各地にこれに代わる数日で参拝できる巡礼コースが創設された。

 上原の19番霊場は、四国八十八ヵ所19番霊場である徳島県小松島市の立江寺の本尊=延命地蔵菩薩を勧請されている。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、弘法大師の刻んだ仏像があり、阿波藩主蜂須賀公により再建された古刹である。地蔵菩薩そのものは、観音の化身の姿であり、延命地蔵は、人の苦しみを救うばかりかいざという時、身代わりとなって災難から助けてくれる、霊場あらたかな地蔵尊として信仰が厚い。上原では、一時、薮の中で薄汚れていた石仏であったらしいが、今再びよみがえり、毎日のように線香や蝋燭が絶えない住民の熱心な信仰が続いている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012.9.17

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田熊 木山信仰を継ぐ下木・大町の木山様と牛頭天王

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 広戸川を渡り、大町の集会所のそばを通って東の山に登り、植月の県林業試験場に抜ける山道が通っている。軽四ていどの車ならば上がって行ける山道であるが、その山頂近くの道端に、木山様の鳥居が見えて来る。
 林に囲まれた木山様にふさわしい静かな境内に、二つ御社が配祀され、よく手入れされた神社らしきたたずまいを見せている。
 昭和拾年
木山神社御社再建立 正遷座祭 欽行
 壱月参拾日
 二つ社殿には、昭和10年(1935年)に再建されたことを表わす、次の棟札が納めてある。
 木山氏子下木・大町連中としてこの再建にかかわった住民29名の氏名が、別札に銘記されている。
 さらに、今一つの御社には、国歌安泰・氏子安穏を祈って、「奉再建善覚神社一宇成就」と記された、同じ年代の棟札が納められている。
 木山様を祀る御社内には、明治十年丑(1877年)四月八日の奉納札もあるが、古い棟札として、天保2年(1831年)の再建を記した棟札がある。境内には、安永5年(1776年)と刻んだ古い浄水鉢も置かれている。
 数十年おきの再建を考えるならば、江戸時代半ば以前からの信仰と言えよう。
   天下泰平 天保二辛歳 祭主 金藤豊後守
齋奉再建立木山午頭天王感應一宇成就息 受延命處
 国土安穏 卯八月吉日 藤原正清謹書
2012年9月9日(日)取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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田熊 雨乞いが行われた山頂の竜王様

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 田熊分広戸川の東側に小字大町・下木集落があるが、その東側山地の山頂部に龍王様が祀られている。木山様の近くと聞いて訪れたが、海抜200mほどの山頂部は、平坦地ではあるが樹木が茂って道もふさがっており、案内なしには、たどりつけない状況であった。
 地元の婦人でさえ、話は聞いているが、お参りしたこともなく道は知らないと疎遠な様子であった。今や存在がうすれかけているが、かつて龍王様は、農民にとって水田の用水の確保のために欠かせない天の雨をつかさどる大切な神様であった。天候不順でとりわけ田植え時期や夏分に何日も雨が降らない干天が続くと、熱心に龍王様を拝み、やぐらを組んで大火を焚くいわゆる千駄焚き(せんだたき)をして雨乞いを行った。水源の浅い広戸川は、干天続きには水涸れを起こしやすいことから、龍王さまを祀る必要があったと考えられる。
2012年9月9日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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廣戸神社(大吉字平野)

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廣戸神社(大吉字平野) 2012.9.2取材
 「美作神社資料」によれば、宝亀元年(770)、山城国(京都府)男山八幡宮(石清水八幡宮)を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と唱えました。その後、文治5年(1189)に廣戸村大吉字宮の奈留に社殿を移し、応永5年(1398)大吉字平野に遷座しました。
 祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・大山祇命・武内宿禰・須勢理比売命・志那津比古命・志那津比売命の7柱の神です。境を接して建てられた廣戸神社と五穀寺の境内は、奈良時代から始まる神仏習合(混淆)の姿をとどめています。
(神社と寺院より)※神社よりいただいた沿革は最後に載せてあります。
祭神:品陀和気命 大山祇命 息長帯命
    武内宿禰 須勢理比賣命 支那津比古命
    支那斗辧命 (大雀命)風神社...
※廣戸神社の宮司さん曰く、風神社は今は自衛隊の基地で着弾場になっているそうです。鳥居の1本が残っているとか。

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福井 薬師院猿の湯伝承の薬師様

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 福井八幡様の南側の麓から、勝央町にぬける道(工門勝央線)が通っている。その道に入ってなだらかな登り坂を数百mも行かないうちに、いわゆる火のかま古墳がある。その古墳から道路をへだてた東側の丘に、粗末な方1m余で背丈ほどの高さのお堂がある。なお、このすぐ近くには、広野小の初代校長松本譲先生のお墓もある。
 このお堂に、古くて塗りのはげた高さ30~40cmの仏様=お薬師様が安置されている。さらにその横には、年月を経て朽ち果て虫食い状態で頭と胴だけの、おそらくはその先代の仏様が並びおかれている。
 この薬師様は、火のかま古墳の下の谷筋より現在地に移されてはいるが、平安末期、新宮城の栄えていた当時、温泉の湧き出た薬師院の湯ゆかりの伝承をもつ仏様である。新宮山木下伝記によると、およそ次のような記述がある。
 新宮城主二代道衡(みちひら)の時、康平元年(1058年)この丘陵のすそ谷筋で薬師院というお堂を開いていた海常坊が、読経のさなか庭で湯浴みの音がするので、のぞいて見ると、大きな老猿が泉水に入っていた。驚いたことには、湯気が立ち昇っていて水が温かくなっており、泉水に湯が湧き出ていることを知った。海常坊は、直ちに城主に願い出、薬師院猿の湯という湯治場(とうじば)を設けることにした。やがて、傷も癒え、難病も平癒する薬湯のうわさが広まり、近郷近在から沢山の人々が入浴するようになって、大変な繁盛を迎えた。この結果、多くの湯銭かわりの賽銭賽米が貯えられることになった。その貯えは、海常坊(みたちぼう)の願いでにより、福井正伝寺に五重塔建立の資金となったと言われている。猿の湯は、その後74年間も続いて湧き出ていたが、長承元年(1132年)4月、他国の武士と浪人者が湯船で喧嘩・殺傷事件を起こしたため、湯の入れ替えを試みたところ、これを機として湯は出なくなり、温泉が途絶えたそうである。
(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年6月28日取材

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