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取材記事内をタグ「神社」で検索した結果,242件の記事が見つかりました。

岩滝様と腰淵様(油木北)旧久米町

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 油木北の岩滝様も巨岩崇拝に基づく神様で、此の地方は、弥生時代の集落址・土拡墓群、数々の古墳のあることからして、弥生時代から古墳時代、奈良平安時代へと、人里の栄えた地域で、小範囲の地域に巨岩の何個もが集まっている岩滝様のあたりは、磐境とか磐座と見立てるに恰好の条件を備えていて、神宿る聖域として祭祀が行われており、時代が降って、瀬織津姫(せおりつひめ)の神を祭神とする岩滝様が祀られるようになった。

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八坂神社(近長)

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由緒 創建は弘仁十二年(821年)である。牛頭天王を奉祀(ほうし)している。明治元年に八坂神社と改称した。
主祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト)、例祭 10月22日、境内地 823.80坪、主要建物 本殿・幣殿・拝殿・神楽殿、宮司 豊田元留、責任役員 甲田寅夫 甲田三郎 今田鶴一 甲田頼光(文:岡山県神社誌より抜粋)2014年10月8日取材

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鶴坂神社(坪井下字鶴坂)

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鶴坂神社(大字坪井下字鶴坂1577番地)  2014年9月19日取材
 往古より久米郡北部の産土神として美作國百十二社の一つで、大井庄、中北下村三ッ高山の山上に鎮座し、吉村宮と高の村宮の二神が祀られていた。社殿も壮厳で霊験も顕著であったので元暦年間(1184-1185)梶原氏は此の社を崇敬し武達長久の祈願の為寄進する。それ以後天下が源氏の下におかれてからの國主・領主の崇敬が続き寄進奉幣は常に絶えなかったと云われている。当社恒例の大祭には苫田郡小田草の神輿も参加するのが例となっていて、毎年四月の牛の市もにぎやかであったということである。

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日吉神社(宮部上)

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日吉神社 大字宮部上
 此の社の由緒は拝殿の額によると、祭神は大山紙神で、嘉吉年間、山名教清が岩屋城を築くに当たり、その部将を派して此の地に城塞を築き、近江の国坂本から山王権現の分霊を勧請して守護神としたのが此の宮の起元である。その後兵乱により城塞は失われ此の神社のみが山上に残っていたものを、江戸中期に至って此の地方の人が之を山麓に移し、本社にならい「日吉神社」と改めて今日に至ったものである。本社は元、官幣大社日吉大社で、全国3796の分霊社の一つであるというのである。

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若宮神社(茅町)

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 若宮神社は茅町の町内神で、西寺町との区分である旧道にある。この通りが最初吉井川の土堤であった。境内には樹齢四百年という椋の大樹がある。
石柱には元禄13年(1700)再建と刻まれている。「若宮」は先祖や非業の死をとげた人を祀ることにはじまった。
境内に若宮神社のほかに亥子神社、穂近神社、恵比丘神社、多賀神社、愛宕神社が並ぶ。

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義信神社(安岡町)

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この近辺で義人を祀る神社というのは珍しいと思われる。安岡町の義信神社は渡辺藤左衛門義信という義人が祀られている。もと安岡町と茅町は津山の城下町になっていなくて城下町に比して重税に苦しんでいたと云う。元禄の頃安岡町に渡辺藤左衛門義信という浪人がいて町民の為に藩に直訴した処、願いが聞き届けられて城下編入が実現した。しかし、直訴は法度であり、義信は処刑されてしまう。町民は藤左衛門をあわれみ、その義挙を徳とし祠を建て神と崇めた。それが義信神社である。今も安岡町の人々はこの宮をあつく敬い、夏と秋にねんごろに祭祀を行っている。(文:つやま城西まるごとまち自慢より)

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お花の宮 善神社(徳守神社内)

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 お花の宮は、正式には「お花善神」です。むかし、勝間田(今の勝央町)にお花という美しい娘があり、津山藩森家の重臣原十兵衛の屋敷に行儀見習いの奉公にあがりました。
利発で性格がよく、十兵衛に信頼され寵愛されて赤ちゃんのお守りを命ぜられていましたが、ある時、ふと目を離した隙に赤児が縁から落ち、踏み石に頭をうって死んでしまいました。
お花の過失はどうしようもなく不運を嘆き悲しんだのですが、愛児を失った奥方の怒りは激しくお花を責めに責めて、とうとうなぶり殺してしまいました。

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徳守神社 摂社「住吉神社社殿」

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徳守神社 摂社「住吉神社社殿」〔平成17年津山市文化財に指定〕
 社伝によれば、慶長九年、森長継公が津山城下の総鎮守として建立した徳守神社の元本殿とされています。その根拠として、この社殿の建築構造から建立年代を推定すると17世紀初期まで遡ることが出来ます。
 現在同じ建築様式で現存している建物としては、八出天満宮本殿「寛永十四年(1637)」千代稲荷神社本殿「天和三年(1683)」〔いずれも津山市指定文化財〕があるが、これらと比較しても数十年は先行した建物と推定されています。

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大倭村 村社 八幡神社(津山市南方中)

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由緒沿革 創立年代は詳かでない初の折居神社又は折居八幡宮と稱へて居た。
寛平四子年再建したが慶安4年11月火災のため神器奮記全く焼失して傳ふるものがない後寛文元年假宮を建て元禄二巳年9月10日と正徳3年8月と天文2年5月との三回に建立又は修繕して今日に至った。
明治12年9月22日村社に列し大正4年10月村内無挌社八坂神社及稲荷神社を合祀した。
社殿 本殿梁行4尺 桁行4尺5寸(元文2年建設)、拝殿梁行2間半 桁行3間 幣殿、神庫(以上明治11年建設) (文:『久米郡誌』より) 2014年3月29日取材

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八幡宮(宮尾)旧久米町 

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八幡神社(宮尾) 大字宮尾
 古老の伝える口癖によると、往古一郡の総鎮守として豊前の宇佐八幡の分霊を勧請したもので、其の際、定平家の先祖が御神体を奉持して帰り、其の後長年の間定平家が神事を掌どっていたが天文の頃(1532~1555、室町時代の後期)神職を他家にゆずり、定平家は秋の例祭に行われる宇佐八幡宮の神事にならった流鏑馬だけを勤めることとなった。
八幡様は武の神様であるので馬術と弓術を組み合わせた流鏑馬が神事として取り上げられたことは尤もなことである。然し乍ら神事としての流鏑馬は年を経るにつれて段々と象徴的となり、服装も羽織袴となり乗馬と共に神輿の前を歩くだけのこととなっていた。

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