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上賀茂神社(津山市原字荒神)

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 勝加茂原字荒神にある。祭神は火産霊神・素戔鳴命・味鉏高彦根命・下照姫命をまつる。原村往古より勝加茂西上(現上村)鎮座の若王子権現を産土神としたが、明治十年その氏子を離れてもともと荒神社のあった地に社殿を建立し、旧来の荒神社の祭神に西賀茂神社及び朝吉神社の分霊を勧請合祀して、上賀茂神社と号した。(歴史めぐり資料より)2012年7月8日取材

「美作神社資料」には、「和銅元年鎮座、大永五年山名太郎左衛門常清の社殿再興、正保七年以来氏子よりその費用を献進する」とありますが、その拠るところが明確ではありません。「勝北町誌」より

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久保(ひさやす)神社 (旧久米町)

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久保(ひさやす)神社   (2012.5.22取材)
 祭神は保食の命・句々迺馳の命、祭日は、例祭10月15日、祈年祭5月1日、新嘗祭12月15日である。
 当社は古くは久保妙見社、久保大明神などと称していたが、明治4年7月に太政官布告によって久保神社と改称され、昭和35年3月には青木神社を本社に合祀して今日に至っている。
 本社は寛文13(1673)年、本殿の再建立の行われた棟札があって、それより以前のことは全然わからないが、それ以後のことは棟札や棟札を写した記録によって沿革の大要をたどることが出来る。文政6(1823)年の頃迄の約150年間程は大字宮部下の中尾家の人によって神主が勤められていたので中尾家につたわる書(棟札の写しと、神社にある棟札とを年代順に整理した文書)がある。
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河面 農耕と深く関わる二つの地神様

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▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
 河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。 
 「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
 また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
 「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
 この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
 ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
 地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
 農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
 なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材

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國司神社 (旧久米町)

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国司神社(2012.5.13取材)
 祭神は、大国主の神である。此の社の文書の中に祭神に関するものがある。
國司神社は、作陽誌に
同村(宮部下村)國主社、祭九月九日、境内東西十八間、南北十六間。
と書かれている、当社の文書によると、川原寺の信徒が話し合って、明応元(一三三八)年三月七日、出雲大社から國師大明神即ち、大国主の命を勧請し、現在の地に社殿を造営して産土の神としていつきまつり、子孫繁栄、五穀成就、牛馬安全の護り神様としたもので、其の後弘治元(一五五五)年に当社の神主家行見氏の祖霊社を祭り、天正三(一五七五)年には諏訪大明神(祭神建御名方の神と事代主の命の二柱)を勧請し、更に慶長三(一五九八)年に愛宕神社(祭神は雅産日の命・埴山姫の命・伊弉冊の命・天熊人の命)を併せ祭ったものである。(久米町史より)
 
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作楽神社のカキツバタの花が綺麗ですね!

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2012年5月13日に津山市神戸(じんご)にある作楽神社の外堀で咲くカキツバタの花が周囲の緑に映えてとっても綺麗でした。そういえば年々増えてきていますね。ここのカキツバタは、住民有志のみなさんがお手入れをされていて、現在約2000株にもなっているそうです。12日~20日午前10時~午後1時にお茶の接待があるそうです。(過去の取材はこちらをご覧ください。)(さくら

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田熊 山頂に位置し祀られている愛宕神社

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2012.4.21
田熊 山頂に位置し祀られている愛宕神社
 広野小学校下の小村池を、東に沿って、田熊上土居方面へ至る坂道をあがると、北側の山頂にある位置に愛宕神社が祀られている。丘陵性の山地のため、軽四自動車ならば、坂道を上りきった所からか上土居西山集落の墓地のあたりから、愛宕神社周辺へ行き着くことができる。
 この辺りは、付近で一番高い山のため、樹木のない南面の展望がよく効く所であり、まことに愛宕の神を祀るにふさわしい場所と言える。福井の新宮山にも、同じく山頂部に小祠の愛宕様が祀られているが、こうした場所の限定は、愛宕の神の特性を考えてのうえと思われる。
 愛宕の神は言うまでもなく、京都市嵯峨の愛宕神社から勧請されたものである。京の愛宕神社は、もともとは、山城と丹羽との国境にあたる鷹峰の地に鎮座し、塞の神としての性格を備えていたといわれている。平安遷都後、比叡山に相対してそびえる愛宕山で祀られた。
 火の神の迦遇槌神(火産霊神)を祭神としていることから、鎮火火災の神、つまり都を火災から守る神として信仰され、ついには王城鎮護の神となって祀られた。やがて、多くの修験者たちが山籠りするようになると、愛宕山伏は諸国を遊行し、火伏せの神としての愛宕信仰を広めた。そして、村々の小高い丘を見つけては、そこに分社分霊を勧請してまわった。事例として、NHKの場合、東京港区の愛宕山にあり、その丘の上には愛宕神社が鎮座している。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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福井 絵馬が往時を語る金比羅宮

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福井 絵馬が往時を語る金毘羅宮2012年2月12日取材
 福井の街道筋の二つ池の南山手に金比羅宮がある。こんぴらさんの通称で信仰されているが、四国琴平の金毘羅宮より勧請され、祀られたお宮であることは言うまでもない。
 金毘羅宮の神は、本来、薬師如来十二神将の一人宮毘羅大将であり、とくに航海安全・交通安全の御利益で知られているが、さらに家内安全・商売繁盛・開運出世など幅広い御利益でも人気が高い神様である。江戸から明治の時代にかけて、伊勢参りとともに、一生に一度は金毘羅参りをすべきものとされ、その参詣は信心深い庶民の念願であった。森の石松の金毘羅参りは有名な話だが、とくに江戸時代後半には、町人文化の広がり、商品流通の進展・金毘羅道などの交通網の整備などを背景に金毘羅参りが流行した。 (文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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福井 古い伝承のある福井八幡宮

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福井 古い伝承のある福井八幡宮1(2012年2月12日取材)
 福井八幡宮は、自然の豊かな林に囲まれ、幅広い長い参道やよく整った境内、古い本殿や相応の拝殿の建物を有し、いかにも鎮守の森を思わせる神社である。しかしながら、道路から見えにくい離れた山中にあるため、地域の人以外は、その所在が知られていない。片山・桑田集落の南に広戸川が流れ、対岸に西から東へ川に沿ってなだらかな丘陵をなした山がある。その木立でおおわれている山の中腹に八幡様がある。
 四つ立橋を渡り、福井大崎線から勝間田方面に抜ける道(工門勝央線)に入ると、直ぐに参道の入口があり、尾根つたいに3~400m参道を上ると、神社境内に達する。この道が単に参道ばかりでなく、田熊方面に抜ける山道であったことを物語る道標が、入口に半ば埋もれ今も残されている。
 福井八幡宮の創設は古く、一説に平安時代、広山・田熊八幡と同様に、福井八幡宮は、清瀧寺本尊に対する南部の守護神として創設されたとも言われている。しかし、平安末期、新宮山に位置する新宮城とのかかわりのなかで、創設されたとの説が具体的で実証的である。

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福井 縁日に今も賑わう長谷稲荷(ながたにいなり)

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長谷稲荷(ながたにいなり)  2012年2月11日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
 長谷稲荷は、福井の地域にありながら、福井と一部田熊の地元関係者以外は、あまり所在が知られていないのではないかと思われるが、今でも熱心な信仰のもと、縁日には多数の参詣者があり、賑わいを見せている。
 この稲荷様は、福井の集落から2~3kmかけ離れている津山市の東端部で、勝央工業団地の北側、すなわち、勝央町福吉と境を接する山地の山頂部に位置している。稲荷としては珍しく創建の由来や時期がはっきりし、集落とかけ離れたところに位置している意味もわかる数少ない神社である。要約して言うならば、江戸時代末期、福井村と福吉村との入会地紛争の結果創建された、いわば封建時代における民衆の苦難の歴史を秘めた神社なのである。

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広野 田熊八幡宮秋祭り(2011年)

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若くて溌溂とした担ぎてにおもわず拍手喝采!(2011年11月3日)
 2011年11月3日に田熊八幡宮の秋祭りが執り行われました。
ドドーンドン・・・今年も宵祭りの太鼓の音が響く。町内の当番に当っている役員や若者が夜を通して太鼓を叩き、かがり火を焚く。午前2時頃になるとかなり冷えこみ、たき火で暖をとる。夜が明け朝7時頃から町内の人々が集まり始める。
 午前9時、田熊八幡神社で祭礼をすますと、豆しぼり姿の若者たちは約400 kgのお神輿をかつぎ上げ、境内をねり歩く。その後お神輿は、傾斜約30度の坂道へと進む。最初の階段は、傾きが40度くらいはあろうか・・・。 ここが最初の難門。若者たちも、一歩一歩慎重にお神輿を前に進める。以下津山瓦版特集へとつづく 【田熊八幡宮の取材記事はこちら

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