河面 斎田のあった歯朶(しだ)森大明神

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河面 斎田のあったあった歯朶森大明神(2012年1月28日取材)
 植月線河面坂を下り、平地にでる間際の南側山手(喫茶パンの木の裏山)に、ひっそりとした雰囲気の歯朶森大明神(しだもりだいみょうじん)と言われるお宮がある。神社へは、国道から南に入った最初の谷をしばらくいくと、鳥居が見え、境内への上がり口となる。神社らしい森のなかに、小規模ながら鳥居・石段・常夜灯・お宮の本殿とたたずまいをもち、よく手入れされ整えられている。
 伝承によると、平安末期に福井の新宮城に祀られていたお宮が、源平合戦の戦乱に巻き込まれて、落城の後ここに移されたらしい。文化9年(1812年)発刊をみた「東作誌」には、河面村に「歯朶森明神社」の存在が記載されていることからも、昔ながらの神社である。

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 本殿両脇の石造常夜灯に「奉献燈 天保6年(1835年)光井周蔵」(右)と同じく、「光井房蔵」(左)とあり、これが河面の庄屋光井家の寄進によるものであることが分かるとともに、これまた江戸時代の存在を裏付けるものである。明治になるまで、河面の八幡様は清瀧寺守護の役割が強かったために、この歯朶森のお宮の方が、村人の鎮守の宮としての役割を果たしていたそうで、当時は河面村全体で祀っていたと言われている。
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 祭神は、建速須佐之男命(素盞鳴尊と同じ、天照大神の弟に当たる神様)であり、人の身に起きる災厄と疫病を除き授福の神として崇められており、五穀豊穣にもかかわる神様である。
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 信長や秀吉も、この大明神の信仰が篤かったことで知られている。この神様は不浄を嫌うと言われ、奉納の米も特別の斎田から収穫したものを献上する習わしであった。歯朶森神社のある谷水田は、わすかしかなかったこともあって、戦前まではお宮の斎田として、堆肥や下肥をいっさい使わないで稲を作っていたそうである。小規模ながら、斎田をもつお宮として、その格式を維持してきた特色ある神社と言えよう。
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 このように、お宮として長い信仰の歴史を経て来たが、明治以後の神仏分離政策によって、八幡様がはっきりと村の鎮守の神となったために、今では、河面の下山地区十数件の神社として祀られ存続して来ている。年4回(4月・7月・10月・12月)の祭礼の日を定め、前日に参道も含め清掃準備し、当日は各家族の者が集まって祭礼の後、共に会食など団欒の一時を過ごすとのことである。

(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)