仲仙道城山(宮部上)

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大字宮部上、字仲仙道にあつて、土地の人は単に「城山」と呼んでいるけれども「城山」と言う地名は各所にあるので、他と紛れないために「仲仙道城山」と呼んでおく。
 此の山は西北の部分が細くきびれて「桧ヶ仙」を主峯とする山地につゞいてはいるが、殆んど孤立した山で、一目で「城山だな」と思われる小山である。

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 此の仲仙道城山については文献もなく、語り伝えられていることも知らないが、城山という名称は極めて自然な形で今に伝わっている。標高273mの頂上に上って見ると畧図に示すように心臓形の平地があり、これをかこむように一段低い平坦部が造成されている。此の部分の東、現在畑になっている部分までが城郭の構えになっており、石垣は全然使われていない。

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西北部を除いて周囲は激しい勾配にかこまれており、此の急斜面に溝が二ヶ所に作られている。この溝は急ぎの場合に辷り下りる為のものあ、その麓のあたりに敵兵の集まった頃を見はからって大きな石などをいくつもころがり落して敵に大損害を与えようとする防御禦用のものかよくわからないが恐らくはその二つの用途のものであろう。此の溝は綿密に探せば此の外にもあるかもしれない。飯料水は此の頂上にはないが、裏の谷に井戸の跡がある。文献にはないがたしかに中世の城址である。

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中世の城跡となるとこのあたりでは岩屋城との関係を考えない訳にはゆかない。地図の上から見ても大字宮部上、下の谷は岩屋城の裏側の一連の人里で此の城にとっては重要な地域である。岩屋城の北、梅ヶ峠から、大字宮部上の田添部落に出る道があり、此の道の中間の山頂部付近で右折すれば尾根づたいに大字宮部上日吉部落の法林寺のところに出ることができ、更にこの尾根づたいの道の途中から左折して坂道を降りれば仲仙道城山の南麓に出ることもできる。中世から近世にかけては此のあたりの集落は現在よりも家数も多くて繁昌していたし、徒歩旅行が主であったので、今でこそ通れなくなっていいる山道もよく利用されていたものであるが、仲仙道城山は、その奥に田添・平草という二つの人里があり、此の二つの集落は前記岩屋城への外、上河内(真庭郡落合町)、余野上(真庭郡久世町)と此の地区との交通線上の集落で会って、此の二つの人里の咽喉部をおさえる位置にある。又、此の城山の西麓から小川に沿うて北上すれば古見乢を越して近衛殿(苫田郡鏡野町)に出ることもできる。此の様な交通上の要地を見張っているかの様な城跡である。(文:『久米町史上巻』より抜粋)

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左へ行けばとんぼの里・田添、右は平草方面です。 個人の土地だそうですが三体地蔵がおられます。 

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この対面に炭焼き窯があったそうです。(2020年6月7日撮影)